a 長文 11.2週 00u
 藤原道長ふじわらのみちながは五番目の子だったので、父のくらいである摂政せっしょう関白かんぱく継ぐつ ことができるとはだれも思っていませんでした。しかし、子供こどものころから負けず嫌いま  ぎら で、気が強く、またきものすわったところのある道長は、のちに強運きょううん手伝ってつだ て、事実じじつ上、天皇てんのう以上いじょう権力けんりょく持つも 摂政せっしょう関白かんぱくくらいにつき、全盛ぜんせいをきわめました。そして、ほこらしげに「この世  よをばわがとぞ思う望月もちづきのかけたることもなしと思えば」(この世  よわたしだと思うよ。今日の満月まんげつのように欠けか ているところがないと思えば)という歌をよみました。権力けんりょくをほしいままにした道長は、莫大ばくだい財産ざいさん持っも ていたので、それを生かし、貴族きぞく文化ぶんか平安へいあん文化ぶんかをささえました。漢詩かんし和歌わか絵巻物えまきもの、そしてかな文字による文学は、この時代じだいに大きく発展はってんしました。紫式部むらさきしきぶの「源氏物語げんじものがたり」や清少納言せいしょうなごんの「枕草子まくらのそうし」などもこの時代じだい作品さくひんです。
 さて、子供こどものころの道長はどんなふうだったのでしょう。兄たちとともに父の前に呼ばよ れた時のことです。父兼家かねいえは、できのよい公任きんとうという自分のいとこの息子むすこを引き合いに出し、「お前たちは、公任きんとうのかげもふめんぞ」と叱咤しった激励げきれいしました。兄たちは、うなだれて聞いていましたが、道長だけは、「あいつのかげなんか、たのまれてもふむもんか。わたしだったら、顔をふんづけてやる」と言ったそうです。なんという負けん気ま  きの強い性格せいかくでしょう。 
 また、道長は十七さいの時、仕えつか ていた天皇てんのう発案はつあん肝試しきもだめをしました。雨のふりしきる真っ暗ま くらな夜、怖いこわ 話を聞いた後、天皇てんのうは、そこにいた三人にそれぞれ違うちが 場所ばしょに一人でいってくるように言いました。の二人はおそるおそる出かけたと思ったら、すぐに「ぶきみな声が聞こえた」とか「怪物かいぶつが出た」などと叫びさけ ながら舞い戻っま もど てきました。道長はと言うと、指示しじされた大極殿だいごくでんという場所ばしょに一人で行き、証拠しょうことしてはしらの木を小刀でけずりとってきたのです。ま
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さか、一人で行けるまいと思った天皇てんのう翌日よくじつ調べしら させてみると、削り取っけず と 木片もくへんはぴたりとはしらのえぐれた部分ぶぶんに合いました。天皇てんのうはその勇気ゆうきにおどろきました。 
 このように、積極せっきょくてき怖いこわ もの知らずの道長は、人生を前向きまえむ に生きるすべを幼いおさな ころから知っていたかのようです。だからこそ、強運きょううん呼び込むよ こ ことができたのでしょう。父の後を継いつ だ一番上の兄道隆みちたかは、関白かんぱくになったものの伝染病でんせんびょう亡くなっな   てしまいました。その兄の後を継いつ つぎの兄道兼みちかねもまた同じ伝染病でんせんびょうで、関白かんぱくになってたった一週間でいのち落としお  ました。時の天皇てんのうはそのあとの関白かんぱく決めるき  のに迷っまよ ていました。すると、天皇てんのうの母が、自分の弟でもある道長を強く推薦すいせんしました。
 出世しゅっせする道は長いと思っていた道長でしたが、三十さいのころには政府せいふ第一人者だいいちにんしゃとなっていました。「望月もちづき」の歌は道長が五十三さいのころに詠んよ だものです。

 言葉ことばの森長文ちょうぶん作成さくせい委員いいん会(φ)
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