藤原道長は五番目の子だったので、父の位である摂政や関白を継ぐことができるとはだれも思っていませんでした。しかし、子供のころから負けず嫌いで、気が強く、また胆のすわったところのある道長は、のちに強運も手伝って、事実上、天皇以上の権力を持つ摂政・関白の位につき、全盛をきわめました。そして、ほこらしげに「この世をばわが世とぞ思う望月のかけたることもなしと思えば」(この世は私の世だと思うよ。今日の満月のように欠けているところがないと思えば)という歌をよみました。権力をほしいままにした道長は、莫大な財産を持っていたので、それを生かし、貴族の文化、平安文化をささえました。漢詩や和歌、絵巻物、そしてかな文字による文学は、この時代に大きく発展しました。紫式部の「源氏物語」や清少納言の「枕草子」などもこの時代の作品です。
さて、子供のころの道長はどんなふうだったのでしょう。兄たちとともに父の前に呼ばれた時のことです。父兼家は、できのよい公任という自分のいとこの息子を引き合いに出し、「お前たちは、公任のかげもふめんぞ」と叱咤激励しました。兄たちは、うなだれて聞いていましたが、道長だけは、「あいつの影なんか、たのまれてもふむもんか。私だったら、顔をふんづけてやる」と言ったそうです。なんという負けん気の強い性格でしょう。
また、道長は十七歳の時、仕えていた天皇の発案で肝試しをしました。雨のふりしきる真っ暗な夜、怖い話を聞いた後、天皇は、そこにいた三人にそれぞれ違う場所に一人でいってくるように言いました。他の二人はおそるおそる出かけたと思ったら、すぐに「ぶきみな声が聞こえた」とか「怪物が出た」などと叫びながら舞い戻ってきました。道長はと言うと、指示された大極殿という場所に一人で行き、証拠として柱の木を小刀でけずりとってきたのです。ま
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