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課題集 ベニバナ3 の山

○自由な題名 / 池新
○この一年、新しい学年 / 池新

★夜中に喉の渇きを覚えて / 池新
 夜中に喉の渇きを覚えて目をさます。ほんとうは健やかな感覚であるはずだ。
 起き上がって水道のところまで行き、冷たい水をコップに一杯、腹の中に流しこむ。その混じり気のない満足がすぐにまた眠りにつながっていく。酔いの重しをつけて底に沈められたような今までの眠りと違って、心地よく小波立ちながらどこまでも平らかにひろがっていく眠りだ。
 ところが、起き上がれない。ひたむきな肉体の欲求が、ほんのわずかのところで、どうしても動作につながっていかない。暗がりの中で頭を起こして腹這いにまではなっている。枕元の水は寝る前に飲み尽くしてしまった。酒と一緒に水をそんなに飲むというのは、あまり良い酔い方はしていなかったしるしだ。壁のクーラーが控え目な音を立てて、わずかに涼しい風を首筋に送ってくる。妻と子供たちが薄い毛布の下で三人からだを寄せあって眠っている。水辺の宿に泊まるという楽しみは、三人の中でどんなふうに満たされているのだろう。
 目に映る物の動きがからだの底のほうから軽い眩暈を誘い出す。悪酔いの時のあの感じに似ている。波の動きとともに、なまなましい力が闇の中に遍く満ちわたり、蠢きあっている。それに釣り合うだけの活力が、いまこのからだの中にない。背中のほうで妻と子供たちが交互にふくらます寝息さえ、水のゆらめきと、ふとひとつに融けかかる。動きに取り囲まれていることに、つかのま、言いようのない堪え難さを覚えた。しかし目覚め際の感覚にすぎない。目覚めの際に、肉体が生命感をひょいとどこかに置き忘れてきたとしても、不思議はない。よくあることだ。
 鹹水湖(塩水をたたえた湖)が山の間まで深く入り込んでいる。向こう岸はもう山地の夜の暗さだ。空もどんよりもやって、星ひとつ見えない。都会の夜更けを覆うスモッグに似ている。大勢の人間の吐き出すいきれが空にのぼり、夜気に冷やされて白く(こごりはじめ∵る。このあたりに何軒もある旅館やホテルの客たちの寝息だろうか。全部で二、三百人は眠っているはずだ。それとも、人間どもの存在にかかわりなく、大昔から、夏の夜更けになると水面からのぼるもやなのかもしれない。人家も見えぬ山あいの闇の中に立ちこめるいきれ……。草や樹は気孔を開ききって葉を重く垂れ、たちは喘ぎながら水辺へおりていく。このあたりでも、水はまだよほど塩からいのだろうか。
 眩暈の感じは徐々に引いていった。水はまだゆらめいている。とりとめもなく動く水を、とりとめもない気持ちで眺める。そういう時間を幾度か重ねて、年を取っていく。何年かに一度ずつ、判で捺したように同じ気持ちで水を眺める自分が繰り返され、それからいつか、存在しなくなってしまう。それでもこの放心の状態の中には、物憂い永遠の感じがたしかになにがしかふくまれている。
 舷側に押し分けられた水がしなやかに反りかえるみどり色の壁をつくって滑り退いていき、波頭をざわめかせながら、うねりの中に巻きこまれる。そのうねりの群れの前に、二つになる下の子供が立っていた。水の動きにぼんやり眺め入っている様子が細いうなじに表れていて、思わず近づいて背中にそっと手をかけたくなるような後ろ姿だった。そばに行ってやろうかな、と思いながら、遠くから眺めていた。子供の前から、水がじかにひろがっている。甲板からの昇降口にあたるらしく、そこだけ手摺りが切れていて、太いロープが二本ゆるく渡され、その下のロープを子供は左手に握って、からだの重みをわずかにかけている。ロープがその手のところでやや押し下げられて、心もち、外側へ、水のほうへ傾き気味に張っていた。
 はっとした時には、手肢てあしが金縛りになって、頭髪がほんとうに逆立っていくのがわかった。夢の中で空足を踏むような焦りが全身を走った。その時、タラップの方で軽やかな足音がして、上甲板から駆けおりてきた若い学生風の男が子供の姿を目に止め、こちらが走∵り寄るよりも一足早く、子供をロープのそばから抱き取った。後ろで妻が短い悲鳴を上げ、蒼ざめた顔で男のそばに駆け寄って、子供を奪い取った。男はちょっと唖然とした面持ちで妻を見やってから、また軽やかな駆け足で下の船室におりていった。
 すぐに船室に行って、からだじゅうに冷や汗を掻きながら、礼と詫びをしどろもどろに述べると、男は具合悪そうにうつむいて、「ちょっと危ないなと思って……」と、まるで言い訳のようにつぶやいた。
 下の子がいつのまにか毛布を蹴飛ばして、オムツを当てていた頃のままガニマタにひらいた短い足を母親の腰の上にのせている。あの金縛りの状態では、とっさに後を追って飛び込めはしなかった。呆然と見送ってしまった一瞬を取り戻そうとして、人の見る中で、余計な物狂わしい身振りをしたにちがいない。船べりと子供の間に無数のうねりが生き物のようにひろがり、波間から小さな頭が見えて、また呑みこまれる。ガニマタにひらいた短い足が遠くに一瞬のぞく……。
「水が飲みたいな」と、つぶやきがふと口から洩れ、なにか空恐ろしい気紛れの声のように聞こえた。喉の粘膜がささくれ立ったように火照って、濃くなった唾液が不快な臭いをときおり内側から鼻に送ってくる。しかしからだは頑固に寝床に沈みこんでいく。
 目をつぶると、水のゆらめきが全身を包みこんで、奥から眩暈をまたくりかえし誘い出した。
「こんな大量の水に囲まれていながら、コップ一杯の水に焦がれるとは……」という思いが顰め笑いを浮かべて通り過ぎた。

(中西幸雄「友情」)