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課題集 ベニバナ3 の山

○自由な題名 / 池新
○春を見つけた、種まき / 池新

★一つの分類体系が支配し、 / 池新
 一つの分類体系が支配し、それが存在そのものの分類であるとして固定化されている領域の内部だけに生きている人にとっては、「わかる」とは、相手が自分と同じ分類系をもっていることの確認であり、対象を自分の分類体系のどこかに位置づけることであり、「わかり合う」とは、相互に同じ分類体系をもっていることの相互確認であり、それ故の安心である。閉鎖社会での特徴は、「わかり方」がこのような形になっていることである。「君の気持ちはよくわかる」とか、「いまの若者は理解できない」というときの「わかる」とか「理解」は、このような意味である。
 じつは、このような理解であれば、対話も評論も不要なのである。同質の分類体系のなかに住んでいるのなら、言葉はいらない。「ハラとハラ」で十分わかり合えるし、以心伝心が可能である。
 しかし、これでは本当に「わかる」ということにならない。互いに「わかっている」、あるいは「わかり合っている」と思い込んでいるだけで、じつはわかり合っていないかも知れないのである。子供たちが「理解のある」大人に対して不信感を抱いたり、いらいらしたりすることのなかには、「理解のある大人たち」が、ちっとも「わかっていない」のに、「わかった」ふりをしたり、「わかっている」と勝手に思い込んでいることに対する不満があるのかも知れないのである。
 最近いかにも「ものわかりのいい」子供たちが増えているが、わたしは彼らを見て、本当に「わかっている」とは思えない。ちっとも「わかっていない」のに、「わかった風」をしていると思う。それは大人の考えが本当にわかっていたり、大人のいうことにしたがおうとしているのではなく、「どうせわかり合えないのだ」と割り切って、無用な摩擦を避け、適当に「良い子」になって、生活と気分の安定をはかっているのだと思う。
 親は安心するであろうが、結局は本当に「わかり合う」ための努力を、両方とも放棄しているのである。これはいまの子供や若者が、ずるいとか老成しているということではない。彼ら自身が少しあとの世代について同じことを感じているはずで、いまの大人が、自分と同じ分類体系が通用していると思い込んでいるのに対し、若い人ほど実情が見えているのだと思う。
 以上は、日本のなかでの世代間の話であるが、同様の関係が、日∵本と外国、アメリカとソビエト、欧米諸国とイスラム圏、イスラエルとアラブ諸国、先進国と開発途上国などのあいだにあると思う。これらの当事者が、自分の分類体系だけが唯一の真理であると信じ、それ以外のものを排撃している限り、相互理解は不可能で、「わかり合える」ことはできず、結局は、武力にものをいわせて相手をしたがわせるしかないという結果になる。世界全体がそういう方向に進みつつあって、本当にわかり合う努力が放棄されていっているのが、現在の危機的状況ではないかと思われる。
 このように、異質の分類体系が相互の理解を拒否する形で対立し合っているとき、「わかった風」や「理解ある態度」を示すことは、かえって事態を混乱させる危険をはらんでいる。一つの分類体系に固執している相手に「理解ある態度」を示すことは、しばしば相手方に、「自分と同じ分類体系をもっている。」と思い込ませるばあいもあるからだ。このばあい、相手方がその態度を示した側の分類体系を理解することはもちろんない。結局は理解し合うことなく、理解していると誤解し合うだけである。
 したがって、問題の解決はきわめて困難なのであるが、問題点はきわめて明白であると思う。要するに、西欧的な分類体系こそ唯一絶対のものだと信じられていた一つの時代が去ったのである。このときこそ、思い込みの幻想に安住することなく、本当に「わかり合う」ことが重要であり、その可能性もでてきたのである。
 本当に「わかる」とは、異質的な分類体系を理解することである。それは簡単に「わかった」とか「理解ある態度」を示したりできるようなものではない。長い、困難な相互の努力によってはじめて可能になるような、そして可能になっても、実現はきわめて困難な理解の道である。「西欧的な分類体系こそ唯一絶対のものだと信じられていた一つの時代が去ったのである。」と書いたが、だから欧米はダメだとか、日本的分類体系を唯一絶対にせよというのではない。百年たっても、われわれは西欧的な分類体系が「わかった」などといえないのである。むしろ、いままでは、理解したと思い込んでいた傾向が強い。本当の西欧理解はこれからなのである。それほどに「本当にわかる」ということは困難である。それ∵は、欧米の人が、日本の分類体系を理解しようとしなかったことと関係がある。
 異分野の人との共同研究のことと比べよう。一方的な理解などというものは、ありえないのである。欧米人がわれわれを「本当に」理解しうることを媒介にして、われわれも欧米を「本当に」理解しうる。アラブやアフリカとの関係においても同じである。もっとも近い韓国との間にさえ、「本当に」理解し合うという相互努力は、まだきわめて弱いと思う。おのおの、自分の分類体系のなかに相手を位置づけて、理解していると思い込んでいる段階にとどまっているのではないかと思う。
 閉鎖社会では、同じ分類体系を共有していれば「わかり合え」、物事が「わかる」ことも容易であった。また世界支配の時代には、支配国の分類体系によることが「わかる」ことであり、それ以外の体系は、「わかる必要がない」、あるいは「無意味な」ものとされた。
 日本で鎖国時代にすでに、異質的なものの理解の方法を意識化しえたのは、遊廓という日常性とは別の社会の理解を通じてであったが、いまは、科学の諸分科間、科学者と民衆、国家と市民、文科系出身者と理科系出身者、世代間、民族間、国家間、宗教間で、異なった分類創造が行われつつある。やがては、地球外文明との相互理解が必要になるかも知れない。その意味でこの文章は、「異星人とのつきあい方入門」なのである。

(坂本賢三『「分ける」こと「わかる」こと』)

○■ / 池新