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課題集 ベニバナ3 の山

○自由な題名 / 池新
○ひなまつり / 池新
○愛国心、ハトやカラスの害 / 池新
★人間の頭のなかを / 池新
 人間の頭のなかを支配しているのが、そうしたイメージであることを、あらためて指摘したのは、アメリカの心理学者ケネス・ボウルディングです。と言っても、彼は、イメージというものの範囲を拡大して、人間の意識そのものを「イメージ」に置きかえているようですが、ともかく、ボウルディングは、人間の意識を形づくっているのがイメージだ、と言うのです。したがって、その内容は複雑で、なかなかことばにあらわせないのですが、彼はそれを、つぎのように分類しています。
 一、空間のイメージ。二、時間のイメージ。三、関係のイメージ。四、個人のイメージ。五、価値のイメージ。六、感情や情緒のイメージ。七、意識、無意識、潜在意識とみられるイメージ。八、確実なイメージと、不確実なイメージ。あるいは、明晰なイメージと、曖昧なイメージ。九、現実的なもののイメージと、架空なもののイメージ。十、公的なイメージと、私的なイメージ。
 こうなると、頭のなかのイメージなるものは、心のあらゆる相、と言ってもいいように思えますが、ともかく、彼はそれらの意識内容を、すべて「イメージ」と考えているわけです。

 私はここで、ショシャールのいう「内言語」の実体を、つきとめようというのではありません。ボウルディングのいう「イメージ」の分析を試みようというのでもない。私は、たったいま、自分の頭のなかにどんな「内言語」や、どのような「イメージ」が浮かんでいるのか、それを実験的にとらえてみようとしているのです。
 ところで、そうした「内言語」や「イメージ」は、けっして長くとどまっておりません。それは、あたかも水の流れのように不断に変化しており、風のようにとらえどころがない。けれど、水が流れながら、やはり、ひとつの川を形づくっているように、そして風が吹きぬけながら、しかも、春風や秋風、あるいは木枯らし、といったそれぞれの風であるように、頭のなかのイメージや言語も、何となくまとまった像を形づくっているように思います。

 かつて、私はベルギーの言語学者グロータス神父に、あなたはどんなことばで考えるのですか、とたずねてみたことがあります。グロータスさんは、母国語のほかに英語、フランス語、中国語、日本語など、たくさんのことばを自由にしゃべることができるのです。∵いったい、彼はそのうちの何語で考えているのか。
 すると、グロータスさんは、笑いながら、「ああ、何人から、その質問を受けたことでしょう! 答えをテープレコーダーに吹きこんでおきたいくらいですよ」と言って、こう教えてくれました。
「わたしはいま、あなたと日本語でしゃべっていますね。そうすると、あながた帰ったあとも、わたしは日本語で考えつづけます。そこへフランスの友人がやってきて、こんどはフランス語でしゃべり合ったとします。そうすると、そのあとは、ずっとフランス語で、ものを考える。つまり、わたしの頭のなかの言語は、そのときまで使っていたことば、というわけです。」
 もうひとり、私は中国の友人にも、おなじ質問をしてみました。彼は、中国語と日本語を、まったくおなじようにしゃべるのです。彼の答えも、グロータスさんと同様でした。その前まで使っていたことばで考えるのだそうです。
 頭のなかの「イメージ」も、きっとそうなのでしょう。たとえば、その前に外界から強く受けたメッセージが、そのままイメージとなって残り、それを押しのける他のメッセージを受けとるまで、そのまま持続しているように思われます。そして、もし、あるとき受けとったメッセージが、あまりに鮮明であったならば、そのイメージは折りにふれて頭のなかに浮かびあがってくるにちがいありません。

(森本哲郎「ことばへの旅」)