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課題集 ベニバナ3 の山

○自由な題名 / 池新
○雪や氷、なわとび / 池新

★伊代はおぼれていた / 池新
 伊代はおぼれていた。もう沈む寸前といってもよかった。体が大きいぶんだけ、動きも大きく鈍くなりゆっくりになっていた。洋がよっぽどプールへ飛びこんで救助しようと思った。けれど、ここでそうしたら、泳げるようになるのは大幅に時間がかかる。あるいは恐怖が倍加する中で、泳げなくなるかもしれなかった。
(あと十秒、待とう)
 たぶん、ぎりぎりの線だろう。へたに声をかけてもまずかった。洋は目に力のありったけをこめて伊代を見つめ見守った。
(腕を動かしてくれ、足で水をけってくれ。ひどい先生やと、おれを憎んでもよいから、憎しみを力に変えてくれ……)
 洋はしばらくぶりに祈った。誰にということではなかった。そしてまばたき一つか二つする間、祈りながら自分もおぼれかけていた。
 小学生のときだ。泳がしたろか。兄ちゃんが言ってくれ、洋少年はパンツ一枚で兄ちゃんの後について川っぷちにおりていった。紀の川の青い深い流れを見ると洋少年は足がすくんだ。兄ちゃんは水泳部の選手サンであり、みごとなポーズで流れに身を躍らせた。河童になって浮きあがり川ぎしにつないであった小舟にはいあがった。洋を手招き、舟にあがらせた。
「どないしたら泳げるようになるのン、兄ちゃん……。」
 無邪気にたずねる洋に、兄ちゃんはいきなり、強い一突きをもって回答した。ひとたまりもなく、洋は流れにまっさかさまに落ちこみ、水をのみのみ、水をかきむしった。ようやく顔がつき出せて、こんどは犬になって水の中を走り、やとの思いで舟ばたに片手をかけると、兄ちゃんがその指を一本ずつ外してくれた。再び沈みながら、水中に洋は憎しみのことばを吐いた。
「兄ちゃんのひとごろし。」
 しかしそれはみんな泡になって消え、声にはならなかった。夢中で水の中でもがき続けるうちに再浮上でき、こんどは兄ちゃんのいる舟がこわくて、遠くの岸辺へ泳ごうとあせっていた。泳ぐというより、流されるかっこうでようやく大きな岩にしがみついた。気が∵つくと、パンツを流していた。舟に兄ちゃんがいなかった。パンツ、パンツと洋は涙声を張り上げた。パンツは下手の方から兄ちゃん河童が片手に高くさし上げながら泳ぎのぼって取ってきてくれた。
「洋、泳げたやないか。」
 兄ちゃんに言われて初めて自分が泳いでいたのに気がついた。荒療治ながら、兄ちゃん独自の特訓であった。
 洋はおぼれていた。それから死力をつくして浮かび続けようとしていた。流れが洋を運ぶ。へたをすれば遠い遠いところまで運ばれかねなかった。洋はもがき続け、決してあきらめなかった。
(ぼくはまだ子どもやぞ、子どものうちに死んだりしてたまるか)
という気持ちで必死にさからっていた。
 伊代は、はっと目を見開いた。
「先生、助けて――助けてちょうだい。」
 口の中で叫んでいるのに、声になっていなかった。体が鉛みたいに重く、藻になったみたいにゆうらりゆうらりとしか動いてくれない。
(わたし、藻じゃなんかじゃないわ)
 伊代は心の中で叫び、手足を動かした。わたしが藻でなくても、藻にからまれて動かなくなりそうな気がした。
「せんせい……。」
 水の中からせんせいの姿を探した。自分を見つめるせんせいの目が青い光を帯びて輝き、伊予をそっと包んでくれた。伊代は青い光の中で急に体が楽になり、こんどはバレーでも踊っているように、ゆったりと手足が動かせるようになった。すると体全体がぐんと浮かびあがった。体全体が前に進んだ。これが泳ぐということかもしれない……と伊代はぼんやり思い、少しずつ力をいれて本当に泳ぎ始めていた……。
(助かった)
 祈りが通じた気持ちで、洋は両手を合わせるかわりに両手をこぶしにしてかたく握りしめていた。握りこぶしの中から冷や汗がしたたり落ちた。
(今祥智「牧歌」)