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課題集 ベニバナ3 の山

○自由な題名 / 池新
○節分、マラソン / 池新
○一夜漬け、ひとりでいることと友達といること / 池新
★古代から中、近世にかけて / 池新
 古代から中、近世にかけて、公家、武家をとわず支配者の手で馬を通す街道がつくられ、馬をつかって荷物を運び、人が移動するようになると、街道筋には乗馬の客、荷駄をつれた客を泊める馬宿の設備が必要となる。牛はどこでも平気で横になり、人間といっしょに野宿できるが、馬は神経質で臆病なため、夜は馬宿のような安全な場所につないでやらねばならない。それに牛は道草で充分であるが、馬の旅には飼料の手配が必要である。古く旅宿のことを旅籠屋)とよんだが、旅籠とは馬料をいれる籠のことで、旅籠屋とは馬料を用意し、馬をつれた旅人を泊める旅館という意味であった。薪を用意し、宿泊の場所を提供するだけで旅人に自炊させ、薪の代金(木賃きちん)をとる木賃宿より上等の旅宿とされたのがはじまりであったという。
 馬を手厚く飼うのはむかしから武人のたしなみであり、その息災を祈る厩祈祷は古くからある。夏には蚊帳をかけて安眠させるなど、よい馬ほど神経質で、人間以上に手数を要した。乗馬はかならず二頭そろえ、交互に乗り替えるものとされた。明治、大正の陸軍の高級将校たちも、朝の出勤時に乗った馬は午後は休ませ、夕刻の退勤時には乗り替えの馬を使用した。これも武士の作法として伝来のものであったという。
 したがって馬をつかえるのは、これだけの手数をかけたうえ、なおかつその機動力を利用したい人、利用しなければならない人にかぎられてくるのは当然であった。中世の鎌倉街道が、村落とはかならずしも関係なく、等高線にそって走っているのもそれが馬をつかう鎌倉御家人の道である以上、必然の姿であったといえる。古代の間道も、開設されたときは、おなじような姿をしていたろう。だがこうした馬の道は、馬を通すために沢山の人手を必要とし、街道の要所要所に宿駅、馬宿の設備がつくられなければならない。そして、近世に入ると、一般農村の生活水準がしだいに向上し、各地城下町の繁栄がすすみ、人と商品の流通が庶民生活の次元においても活発になりはじめた。このことから、農耕に馬をつかうのは依然として少なかったけれど、従来のように支配者たちの政治的、軍事的目的のためだけでなく、一般の商品や旅人を運ぶために馬を∵つかうことが多くなった。駄賃収入をめあてに手数と資金を投じて馬を飼い、牛にくらべて上等の飼料をたべさせ、街道に出て運輸業に従事するものが急速に増加した。
 民間における商品の流通は、十七世紀末、元禄ごろから顕著になりはじめた。そのころ本街道の宿駅に常備されている伝馬は、もともと公用物運送のためのものであったから、公用の荷物が立て込めば民間商品はあとまわしになる。公用の駄賃は低く押さえられていたから、公用の運送で生じる赤字が民間のものに転嫁されるし、荷物は宿駅ごとに人馬を継ぎ立てるので、損傷することが多い。信州の中馬はこの欠点を補うために発生し、最初は農家の農閑期における現金収入のためにはじまったのが、やがて専業化した。一人の馬方が四頭の馬を追い、馬宿に泊まりながら数十里はなれたところまで直送したので、途中の荷傷みもすくなく、運賃も通常の宿継伝馬の半分に近かった。そのため、街道の宿場の問屋たちは既得権益を侵害するものとしてことごとに圧迫したので、中馬はしだいに宿場のある街道をさけ、間道をえらぶようになったという。
 それゆえ近世における中馬道の成立は、交通運輸史上、重大な変革であった。それまで存在した馬の通う道は、いずれも支配者たちが彼らの政治支配と軍事上、経済上の必要から、強力な政策的努力によって、上からつくりだされたものであった。これに対して民間から、純粋に民間物資を馬で運ぶ道がつくられた。支配者から賦課された義務ではなく、自らの才覚で馬を飼い、駄賃稼ぎをする人、その人たちを馬ごと泊める家が、馬の道筋に発生したわけである。ここにいたって本街道はもちろん、中馬道のようなものまでふくめ、馬の通る道は名実ともに社会の表街道となった。はじめ馬の道は、支配者の手で村落とはあまり関係ないかたちで設定されたのに、この道筋に人と物資が集められ、町や村の生活がかけられて、社会の経済と、文化の発展をここで担うことになった。
 しかしこうした表街道の繁栄の背後にあって、旧来の馬の通れない道は、けっして消滅したのではなかった。中馬の活躍した信州を例にとっても、新潟県西部の糸魚いとい川と信州の松本とを結び糸魚川∵街道は、いちおう平坦な道であったが、いくつかの小さな峠が馬の通行をはばんだので、もっぱら牛がつかわれた。幕末、ここを通って北国の塩を信州に運んだ荷は、年間八〇〇〇駄をこえ、太平洋岸、三河の塩を信州に運んだ中馬の数より多かったという。人と牛しか通れない旧来の道は、繁栄してきた馬の通る表街道からは遠い。その意味では、表街道につらなる、賑やかな人里からはなれた、辺鄙で、険阻な間道となり、陰のうすい存在になりはじめたのは事実である。しかし、この間道も、いっぽうではそれ自身で裏街道のネットワークをつくり、おなじように表街道の賑わいから忘れられかけた村々を直結して、その生活をひっそりと支えていた。裏街道という言葉は、この時代には現代の私たちの感じるほどうら哀しい響きはもっていなかった。近代的な交通機関が馬の道でさえ古いものとして切り捨てるまでは、裏街道もまた、りっぱに社会的効用がみとめられ、生きて働いていた。

(高取正男「日本的思考の原型」)