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課題集 ベニバナ3 の山

○自由な題名 / 池新
○寒い朝、体がぽかぽか / 池新

★明治以後のわが国の文化は / 池新
 明治以後のわが国の文化は翻訳文化である。西欧の文物を摂取して、これを消化するのに懸命の努力で払われてきたが、翻訳とはどういうことかという問題が最近までほとんどとり上げられないでいたのは興味ある事実である。
 まず、翻訳といっても、すべてのものが翻訳されるわけではないが、このことがあまりにもしばしば忘れられている。ヨーロッパの言語と日本語とのように言語の性質がいちじるしく異なっている二国語間において、翻訳されうる部分は普通に考えられているよりもはるかに小さなものでしかない。
 そのうち、もっとも翻訳しやすいのは、パラフレイズを許容する、思想内容、論理、事実などであろう。かならずしも妥当な考え方とはいえないが、かりに、言語を内容と形式に二分するならば、翻訳とは形式を犠牲にして内容を伝えようとする作業にほかならない。翻訳そのものがすでにそのような前提に立つ以上、翻訳文化において、内容が尊重されるのは当然のことである。形式とか形式的というのはつねに否定的な意味合いにおいてのみ使われる語であった。
 ヨーロッパ文化は優秀であるとなると、ヨーロッパの言語に含まれている思想内容もすべてすぐれているのだと決めてしまう。それがどういう表現形式をとっているかは問題にされない。思想中心の書物においてそうであるばかりではなく、文芸においても思想がもっとも重視されるという傾向が固定する。文学においては、思想が大切であっても、それはナマの思想ではなく、表現という衣裳をまとったものであることは理屈でわかっていても、その衣裳を訳出するのは不可能である。また、表現の微妙な味わいまで感得することは翻訳文化の草創期にあっては期待し難いことでもあった。
 まず、かいなでの翻訳でわかるところだけで満足するほかはなかったのである。それが思想内容というわけだ。そしてこの思想が何よりも重視されるのである。芸術においてすら思想が最優先し、すぐれた芸術作品であっても、いわゆる思想がはっきりしていないという理由でしりぞけられるということも珍しくない。
 思想があればよい作品だというのは、どんなひどい料理をしてあ∵っても材料に栄養があれば、おいしく食べるべきだというのにも似た乱暴な考え方である。いかにおいしいものでも料理の仕方がまずければ食べものにならない。そんな素朴なことでさえ、翻訳文化に埋没した時代の人たちにはわからなくなってしまっていたのであろうか。
 それでも、まあ、思想だけはとにかく移植し得たようにわれわれは考えてきたのだが、果たして思想を本当に翻訳し得たであろうか。思想はきわめてしばしばそれを表現する言語と密接不可分である。言葉の形式を捨ててしまっては、思想だけを正しく訳出することすら困難なのではないか。わが国では明治になるまでいわゆる翻訳――原語の形式をすてて意味を伝える転換方式としての翻訳をほとんどしたことがなかったことが思い合わされるのである。
 たとえば、中国大陸から渡来した文化を理解するのに、翻訳にはよらずに、原文を生かしながら読む訓読法を案出したのである。これは語順のいちじるしく違う二言語間の理解のための処理としてきわめて賢明なものであるということができよう。訓点読みが原語の形式、音声を大きく歪めているのは言うまでもないが、それでもなお、原語の一部分は保たれているから、形式がまったく不問に付されることはない。それだけいわゆる翻訳よりはすぐれているとも考えられるのである。
 欧米の学術書の翻訳など、論理と思想が伝わればよいような場合において、きわめて難解な訳文になっていることがすくなくない。原文を見ると達意の文章になっていてすこしのよどみもないのに訳文では何のことかわからないということがおこるのである。そういう例を見るにつけても、翻訳可能なはずの内容も、日本語とヨーロッパ語のような構造の異なる言語の間では充分に移し切れないのではないかということを考えさせられる。

外山滋比古とやましげひこ「省略の文学」)