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課題集 ベニバナ3 の山

○自由な題名 / 池新
○クリスマス、おおみそか、お正月 / 池新
★本当の豊かさ、ポイ捨て / 池新

○ある人は、生きることの / 池新
 ある人は、生きることの本質は演劇的なものであると考える。ある人は、人生とは砂漠のようなものであると考える。徳川家康は、重い車を坂に押し上げるようなのが人生だと考えた。徳川家康のこの考えは、多分に、功利的なものを含んでいて、生きて仕事をする努力は車を坂に押し上げるように絶えず努力をつづけていれば成功する、という教訓につながっている。
 しかし同じような形だが、ギリシャ神話のシジフォスのことを持って来て説明したアルベール・カミュは、それをもっと人間の原罪のようなものに結びつけて、生きることの本質として説明している。シジフォスはギリシャのコリントの王で、狡猾貪欲な人間だったので、死後地獄で罰として、岩を山の上まで押し上げることを命ぜられる。その岩は、頂上まで届くと、そこからころがり落ちる。するとまたシジフォスはそれを押し上げねばならない。人間は、何人もその内部に持っている狡猾さと貪欲さの故に、生きる上で何等かの岩を押し上げねばならず、しかもその岩は頂上に達すると必ず転がり落ち、彼はまたそれを押し上げることをくり返さねばならない。人間であることの本質の中に、そのような苦行が含まれている、というふうにカミュは考えた。
 こういう風に、ある人が、自己の体験から人生についての一貫した論理を作ったり、または別のもの、砂漠とか転がる石などによってそれの本質を説明したとき、それは思想と呼ばれるのである。思想と呼ばれるものは、必ずしも体系的な論理的構造を持たなくてもいい、しかし、それは、ある時の体験、ある事件を説明するのに役に立つだけでは真の意味の思想とは言われない。いろいろな体験、様々な事件にぶつかったときにも、その同じ考えでもその事件の本質を説明して、本人が満足し、やっぱり今度の体験においても人生は砂漠のようなものだと分かったとか、人生は劇場のようだと、繰り返して考えるとき、それは一つの思想と呼んでいい。
 なぜなら、その人は常に、そういう比喩の中に、生きることの本質を見出しているのであり、これから起こるであろう将来のことをも、その考えかたによって待ち受けるからである。そのようなとき、それはその人にとっての思想である。しかし、本人だけがそう∵思っていて、その人の息子も隣人も同僚も誰もが、それを人生についての唯一の真実として受け容れず、同意もしないとき、それは、一般的な意味での思想とはならない。ある考え方によって、自分だけでなく多くの他人をうなずかせ、より真実な人生の本質を理解させる役目をするとき、その考え方は、はじめてその人から離れて、客観的な一つの「思想」として存在しはじめる。「色は空である」即ち、ものの形はその本質ではない、と解釈されるこの言葉に真実を見出す人が多いとき、それは一つの思想として、人から人に伝わり、時代から時代に語り伝えられて、実在というものについて人を考えさせたりする。そして、人間のあり方の本質を理解させるものとして深い本当の知恵がその言葉に含まれていれば、それは長い生命を持ち、多くの人々に認識を深めることに役立ち、教育の上でも役立つことになる。
 このように思想というものは、限られた個人的の臨時のものから、人類の全部または一部をなす多数の人々に真実を教え、生存についての安定感を与え、よりよき生活に導く力を持つようなものに到るまで種々さまざまである。私たちが、自分の体験を整理して、それを人に語ったり、文章に書いて発表するとき、私たちは、このような考え方、見方、整理の仕方として思想を、高い低い、狭い広いにかかわらず持っている。即ち事実についての考え方を持っている。そのような考え方がすべての人の中にあって、書いたり話したりする時だけでなく、体験それ自体の中でもその人を導いているのだ。

(伊藤整「体験と思想」)