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課題集 ベニバナ の山

★学童のあそびには多くの想像力や(感)/ 池新
【二番目の長文が課題の長文です。】
 【1】欧米語に対する社会一般の軽薄な好奇心を統制して大和やまと言葉ないしは東洋語の尊重を自覚させるにはどうしたらいいか。その基礎がひろく日本精神の鼓吹にあることはいうまでもない。基礎さえ出来れば外来語はおのずから影をうすくするであろう。基礎が出来なくては何もならない。【2】基礎を前提すると共に基礎の建設に貢献すべき言語統制の方法としては、文筆に携わるものが必要のない外来語は断然用いない決意を強固にし、まず新しい外国語がはいってきかけた場合には自己の好奇心を抑圧して直ちに適当な訳語をつくること、【3】またいったん通用してしまった場合にはなるべく早く訳語をつくって原語を社会の識閾しきいきから駆逐する事を計らなければならない。
 いったん、外来語が社会的識閾へ上って常識化されてしまうと便利であるから誰しも使うようになる。【4】それ故に常識化されるまでに一般的通用を阻止することに全力をそそがなくてはならない。そして不幸にも既に言語の通貨となりすましてしまったならば贋金にせがねを根絶することに必死の努力を払うべきである。【5】失望するには当らない。「オールドゥーヴル」は「前菜」に殆ど駆逐されたかたちである。「ベースボール」は「野球」に完全に駆逐されてしまった。これらの事実は我々に勇気と希望とを与える。【6】新しい言語内容に関して外国語をそのまま用いればなるほど一番世話はない。好奇心を満足させることも事実である。しかしそれではあまりにも自国語に対する愛と民族的義務とに欠けている。
 【7】西洋哲学の術語などは明治以来諸先輩の努力によって殆どすべて翻訳され尽している。範疇はんちゅう、当為、止揚、妥当などというむつかしい言葉も今日ではもう日用語になりきってしまった。∵【8】哲学上の言葉は概念的抽象的であるからある意味ではかえって翻訳とその通用とが容易であるとも考えられる。すべて言語の内容が客観的知的である場合には翻訳が成立しやすく、主観的情的である場合には翻訳がうまくいかないことは事実である。
 【9】生活と密接な具体的関係にある言葉は雰囲気の情調を満喫していて他国語への翻訳が困難であるには相違ないが、それも程度の問題であって、外来語の国訳へ向って出来得る限りの努力が払われなくてはならない。【0】知識階級が全面的に誠意ある努力をこの点に払うならば必ず社会民衆が納得して使用するような新鮮味ある訳語が出来てくると信ずる。
 日本人は一日も早く西洋崇拝を根柢から断絶すべきである。ことに文筆の上で国民指導の位置にある学者と文士と新聞雑誌記者とが民族意識に深く目覚めて、国語の純化に努力し、外来語の排撃に奮闘し、社会の趣味を高きへ導くことを心掛けなければならない。

 「外来語所感」(九鬼周造)より∵
 【1】学童のあそびには多くの想像力や抽象思考力がはいってくるからきわめて多彩なものになる。すでに三歳ごろからみとめられたことではあるが、低学年ではとくに「何なにごっこ」がさかんになる。【2】たとえば小学校一年の男の子二人は学校から帰ると必ずどちらかの家に行って、庭に大きなみかん箱をひきずり出し、めいめい一つの箱にはいって、自分たちはこの舟の船長なんだぞ、と言い合い、荒れる海を航海するつもりになってさかんに体をゆすり、箱をガタガ夕させるあそびを「発明」した。【3】これがよほど気に入ったらしく、かなりの間、同じあそびを、いろいろと変化を加えながらくりかえしていた。七、八歳ぐらいまでの子はあきずに同じ「ごっこ遊び」をくりかえす。しかもその度に本気でだれか他の人物になったつもりになり、たとえば右の場合ならそのたびに勇猛心や冒険心がこころに湧きあがるらしい。【4】箱がひっくりかえって少々のけがをしたところで、それはあそびをいっそうおもしろくするばかりである。女の子も勇ましいあそびに加わることがあるが、女の子同士だと、もっと静かでしばしばロマンティックなあそび、たとえば「おひめさまごっこ」などをする場合も少なくない。【5】いずれにせよ、同じこころの世界に遊んだ者同士として、こうした幼な友だちの味は一生忘れられないものとなる。おそらくそれはのちの交友、恋愛、結婚などという対人関係の基盤をつくる力を持っているのであろう。
 【6】ボールあそびなどというものは、もっと幼いときから「心身の機能をはたらかせるもの」として行われていたが、小学校の上級になるほどチームを組んで、ルールを守るという本格的なゲームのかたちをとるようになる。【7】子どもたちがその発達に応じてどのようにルールを意識するか、をピアジェ(スイスの心理学者)はくわしく観察した。五歳ごろまでは、ルールは少しも強制されたものとは子どもに感じられず、いわばただおもしろいモデルとしてうけとめられる。【8】五歳以後になるとルールは神聖でおかすべからざるものとして感じられる。ルールは大人がつくったもので、永久にそのままつづくものと子どもは思うので、ちょっとでもルールを変えようとすると重大な違反、という印象を子どもに与える。【9】第三の最終段階になると、ルールというものは皆で協定を結んで作ったものだ、ということがわかってくるので、それをうけ入れるのは、いわ∵ば自分で自分に課したことで、外側から強制されたものとは感じられない。【0】ルールに従うのは集団に忠実であるためで、もしルールが望ましくないとなれば、皆で相談して変えることもできるのだ、というように考える。このような考えかたは十一歳か十二歳ごろにやっと到達するもので、もうこれは大人の考えかたといってよい。このような考えのもとで行われるゲームをピアジェは「自律的ゲーム」と呼び、それ以前の「他律的ゲーム」と対比させている。
 ゲームとは、あそびの一種にすぎないとはいえ、この種のあそび活動を通して社会的ルールを守ること、そのために他人と協力すること、つまり倫理の基本的訓練が行われるのに注目しよう。修身の訓話よりもこうしたあそびの中で子どもの社会性が育って行くことを考えれば、それだけでもあそびの重要性がわかる。
 さらに、あそびの中で想像性がゆたかに発揮されると、創造的活動にまでつながって行く。「ごっこあそび」もその萌芽だが、構想力、表現力が発達した子どもは、たとえば「ものがたりあそび」を早くから始める。夜ねる前のひととき、弟妹たちにおとぎ話を「発明」して話してきかせる子がある。それはしばしば「つづきもの」で、一人の主人公が、毎晩新しい経験や活動を行なう。幼児期の子には「お話」をきくのが大きなよろこびなので、皆一心に耳をすませ、主人公のよろこびや悲しみに一喜一憂しているうちに、語り手もきき手もいつの間にか眠りこんでしまう。ウルフ(イギリスの女流作家)はきわめて幼いころから、こうした「語り手」だったというが、のちに作家になるほどの人間でなくとも、学童期は、こうした空想の世界が花ひらく時代である。それは審美的感情の発達ときわめて密接にむすびついている。子どもの多くが詩人的素質を示すのも、彼らの新鮮な感受性と、奔放な空想力が発達するからであろう。これはうまく発達させれば、大人の卑小な「現実」を乗り越えさせ、新しい精神の世界を生み出す基礎能力となるのだから、大人はなるべくこの芽をつんでしまわないように、むしろ子どもから学ぶように心したいものだ。こうした面を発達させるために、学校の国語教育や作文の授業はきわめて大切な役割を持っているにちがいない。