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課題集 ベニバナ の山

★私が本当に「日本」を身をもって(感)/ 池新
 【1】私が本当に「日本」を身をもって発見したと思ったのは、戦後であった。ある日、偶然、上野の博物館で、はじめて縄文土器の異様な美にふれ、全身がふくれあがった。底の底から戦慄した。日本の根源をつきとめたと思った。【2】無限に渦巻き、くりかえし、もどってくる。そのすごみ。それはいわゆる「日本風」とはまったく正反対だ。あまりにも異質なので、それまではだれもがこの国の伝統とは考えなかった。たんに考古学的資料として扱われ、美術史からも除外されていた。【3】しかし、私はそこに日本人としてビリビリと受けとめる、迫ってくるものを感じとった。そして私はその感動を文章にして発表した。それはひどく衝撃的な発言と受け取られたようだ。
 【4】縄文土器論を私は美学的な問題やただの文化論として書いたのではない。つまりこれから日本人がどういう人間像をとりもどすべきかということのポジティブ(積極的)な提言であり、またあまりにも形式的で惰性的な日本観に、激しく「ノー」を発言したのだ。【5】いわゆる日本的と考えられている弥生式以来の農耕文化の伝統、近世からのワビ、サビ、シブミの平板で陰湿なパターンに対して、太々と明朗で強烈な、根源的感動をぶつける。自分の作品でたたかい、言葉、論理で「ノー」と言う。【6】それはもちろんだが、それだけでなく、だれでもの心の奥底、その暗闇に置去られている、よりナマな人間像をつきつけることによって、現代の惰性をうち破るテコにするのだ。強力な証拠をぶつけたからには、それを起爆剤として、何か生まれるに違いない。私は当然そう期待した。
 【7】憎まれることを前提にして、極力ひらききったつもりである。過ぎ去ったことをいろいろ言う気もないが、私は日本に賭けた。
 (中略)
 私は今この世界で、二本の糸の上を異様なバランスをとりながらわたって行くような思いがする。【8】いわゆる「綱わたり」、曲技を言っているのではない。……見えるような、見えないような、迫り、遠のき、からんでくる、透明な糸。あたりには何もない。見∵物人も青空も。ただ二本の糸だけが灰色の空間のなかに果てしなくのびている。【9】私は自分の周辺と運命を不思議な思いで凝視する。瞬間にバランスが崩れて精神を動揺させる。一本の糸の上に二本の足で立てば、あるいは軽業師かるわざしのように安定するだろう。しかし二本の足で、二筋の違ったスジをわたるのは絶望的である。
 【0】(中略)
 ふと私は思うことがある。欧米の方ばかりに目を向け、すべての価値判断をあずけて己を空しくしている現代日本。しかし、その欧米の文化自体が壁にぶつかって、存在感を絶望的に失いつつある。そのような風土よりも、この根源的な、ナマな生活感の中で、純粋な魂の共同体を作る方が正しいのではないか。なぜ世界の政治、経済の中心地がそのまま文化・芸術のセンターでなければならないのか。それは卑しい。むしろ反対であるべきだ。
 西欧文化の系列と全く反対の出発点に立った、縄文文化とか、マヤ、インカ、北米インディアン……一つながりの通じあい。この魂の風土ともいうべきものを見きわめあい、再発見、再獲得し、ひらいて行くことが大事なのではないか。世界文化の運命のためにも。
 西欧世紀末以来のいわゆる芸術運動、エリートだけの、「芸術」の枠内での戦いは空しい。民衆全体、風土の生活全体に響き、うねりを及ぼすような運動であるべきだ。
 私の目の前に、二本の糸が浮かびあがってくる。魂に純粋にふれて新しく出発する筋。その上をひたすらに走っていくのか。また日本――言いようのない抵抗がある。現実的な場であるからこその、その絶望的な因果の筋を矛盾に耐えながら生きるべきか。心は動揺するのだが。いずれにしても運命の二本の糸の上を異様なバランスをとりながら進んで行くつもりである。

(岡本 太郎)