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課題集 ベニバナ の山

★慰霊祭のたびに官僚たちの挨拶が(感)/ 池新
 【1】慰霊祭のたびに官僚たちの挨拶がある。「……みなさまの尊い犠牲の上に今の平和があることを決して忘れず……」という言い回しを何度か聞いた。そのたびにそれは違うと思った。犠牲がなければ今の平和がなかったわけではないだろう。【2】早い話が、一九四四年末の段階で大日本帝国ファシスト(軍国主義者)政権が降伏していれば、三月十日の東京大空襲の死者十万人も、沖縄戦の死者二十三万人も、ヒロシマの死者十五万人もナガサキの死者七万人も出さずに済んだ。【3】同じように、シンガポールで死んだ人たちも南京なんきんで死んだ人たちも、そもそも日本軍が来なければ自分たちは……と言うはずだ。
 誰だって同胞たちの死を無駄とは思いたくない。意義のある崇高な死と見なしたい。【4】しかし、無駄と認めないのは、自分たち人間の愚かさを糊塗(こと。とりつくろってごまかすこと)することに他ならない。数百万人の死という犠牲の上にしか二十世紀後半の平和が成立しないのだとしたら、そんな平和はいらない。【5】死者たちの上に築かれた平和を楽しむ資格など誰にもないではないか。覚悟の犠牲ではなく無念の死であったという前提から考えないかぎり、また同じことがくりかえされるだろう。
 ヒロシマへの原爆投下の正当性を言い張る人々がまだアメリカには多いようだ。【6】つまり、あそこで原爆を使わなければ本土上陸作戦でたくさんのアメリカの若者が死んだし、日本側の犠牲も多かったはずだという論法。あの時点でトルーマン大統領にいかなる選択肢があったかを考えて、アメリカ兵の死者の数について、数万人から百万人までさまざまな数字が提出されている。【7】その前提として、沖縄戦で日本軍はあれだけ頑強に抵抗したではないかとも言われる。実際の話、沖縄では日本軍は民間人を楯に取り、白旗を掲げてアメリカ兵を呼び寄せた上で反撃するようなアンフェア(公正でないこと)までした。
 【8】これに対して、日本の側から何の反論も出てこないのはなぜだろう。ヒロシマとナガサキに原爆が落とされなかったと仮定して、∵いったい大日本帝国はどこまで抵抗したか。軍の指揮系統はどの程度混乱していたのか、天皇はどこで収拾を図り得たか。【9】だいたいあの時期には誰にどれだけの権力・指揮力があったのか。五十年もたって、関係者の多くが死んでしまって、回想録のたぐいも出尽くしたというのに、その程度のシミュレーション(模擬的に調査・実験をして研究すること)を誰もしていない。【0】戦争で死んだ人々の大半は若かった。高い地位にいたくせに責任の所在をごまかす卑怯者ばかりが生き残ったとしたら、いかに慰霊祭を重ねても若い死者たちは浮かばれないだろう。戦後五十年、各論として名誉の破片を拾う本はたくさん出たが、究極の責任を問う史書はまだ出ていない。だから、原爆投下に対しても決定的な反論ができない。
 「二十年前の八月十五日、私は哀れな捕虜として、フィリピンの収容所にいた。敗戦が近いのは覚悟していたが、祖国が敗れたのは初めての体験である。捕虜の仲間といっしょに、少し泣いた」と大岡昇平は書いた。あの時期に、あの状況で、少ししか泣かなかったことがこの人の知の力だと思う。その力をもって大岡さんは事実による鎮魂(死者の魂をしずめること)を行った。薄っぺらな政治の言葉ではなく、戦場で何が起こったかを確定してゆく堅固な言葉によって、あの戦争を定義した。『レイテ戦記』(大岡昇平の書いた戦争文学)を読み返すのも、ぼくにとっては今年の夏の黙祷の一つだった。

(池澤夏樹『黙祷の夏』による)