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課題集 ユーカリ3 の山

○自由な題名 / 池新
○根 / 池新

★もう暦の上では / 池新
 もう暦の上では春だというのに、京都では寒気がたちかえり、赤い花のついている椿の下枝が触れている庭石の上に、見ている間に大粒のあられがたばしり、勢いよくはねおどりはじめた。
 あられはころころと岩をはしり、しなびた苔の間にビーズを散らしたようにちらばっていく。
 やがてあられは淡々とした雪になって、うっすらと庭を染めはじめた。そのさまを見つめているうち、こんな日は奈良も人が出ないのではないかと思うと、無性むしょうに出かけたくなってきた。
 (中略)
 唐招提寺をふたりで訪れたのは、もう去年の春で、修学旅行の学生たちが静かな庭にひしめいていたが、私たちがゆっくりまわっている間に、潮がひくように彼等の姿はなくなり、ひっそりと静かになった。
 入門は五時までだとその時知って、今度来るなら、朝早くか、五時直前に入れば、人に逢わず静かでいいだろうと考えたのを思い出す。
 帰りに時間があればよることにして、いつ見ても静かな唐招提寺の森を右にして、まっすぐタクシーを走らせ、斑鳩の里へ向かう。
 西の京と呼ばれているこのあたりの道は、車は走ってもいてもまだ静かで、いかにも京都の匂いが残っている。いつでもこの道へ入って、私はほっとするのだ。
 京都から奈良へ車で来ると、奈良に近づくにつれ、私は怒りで胸苦しくなってくる。これだけ美しい寺や仏を千年も抱きかかえていながら、奈良はどうしてこんな殺風景で風情のない道をつくり、こうまで俗悪な建物を平気で続々つくるのだろうか。
 私はいつでも奈良へ入るたびに不快になり、こういう道や町づくりをする奈良の人々の無神経さに腹をたてながら、目的の寺を訪れ、境内けいだいの静寂に包まれると、はじめてほっと息をするのだった。∵
 それでも、不退寺ふたいじを横に見て秋篠へ通じる道や、そこから左に折れて、唐招提寺に向かう西の京の道に入ると、やはり、奈良に来てよかったとほっとする。美しい薬師寺の塔を畠の向こうに見ながら通り過ぎ、なおしばらく走り続ける。
 生駒山が近づくにつれ、ようやく行く手の右の方に斑鳩の里の森かげが見えはじめてくる。松林の上に五重の塔の法輪ほうりんがのぞめるが、その前景となった斑鳩の屋並みやな は、奈良の町のように雑多で猥雑で、およそ斑鳩のさとなどというロマンティックで優雅なひびきには無縁のような表情である。戦前、私が学生の頃、訪れていた頃の斑鳩は広々とした平群へぐり大野おおのの一角に、ゆるやかに夢のように浮かび上がった物寂びた美しい里であった。農家の白壁や、その壁に映える柿の色の何と美しかったことだろう。崩れかけた築地の色の黄褐色おうかっしょくの何となつかしかったことだろう。今の斑鳩はまるで戦後の焼あとに生まれた新興の場末ばすえの町のようにみぐるしい。
 それだけに、いきなり道からそれて、法隆寺の広い参道に入ると、突然別世界にひきこまれたようなおどろきを覚える。もう法隆寺の土塀のまぎわまで、人間の愚かな破壊と侵略が押し寄せているのだ。
 広いすがすがしい白砂はくさの道は東西の大門をつないで、法隆寺を守る水のない濠のような清らかさに陽の光や物の音を吸いとっている。人の靴音も吸いとるのか。ここまでくると天地は古典の世界の静寂に包まれてきて、人々の姿がまるで小さく鹿や鳩のように気にならなくなってくる。砂道を横切ると正面に仁王が立っていて、入口は回廊の左のはしにつくられている。
 回廊にとりかこまれた明るい内庭には五重の塔と金堂こんどうがそそりたっていて、千数百年の昔に魂をかけめぐらせてくれる。
 数えきれない長いはるかな歳月の風雪を肌にしみこませて、まろやかな柱は、ところどころに補修の木肌を痛々しくはめこまれては∵いるが、ひ割れたすきまにも虫喰いのあとにも、歴史の重さとあたたかさがしみこんでいて、思わず掌に触れたくなる。私がそうしたと同じ時、私の同行者も手をのばして、柱を撫で軽く指の腹で木肌をたたきこすっていた。
 掌にほのかに木肌にしみた陽のあたたかさが伝わってくる。
 いつのまにか空は晴れわたり、ちぎれ雲がすでに春の色に輝きながら、金堂の屋根のそりのはし、五重の塔の法輪の上に、ゆったり遊んでいる。
 静かだった。人々もここまでくると言葉をつつしむのか、ささやきも聞こえず、ひっそりと回廊をめぐっている。
 宝物殿で久々に百済くだら観音に逢う。今はガラスケースにおさまっているこの稀有な美しい仏に、十七歳の春、私ははじめてめぐりあった。
 その時は薄暗いほこりっぽい部屋の中で、ケースなどには入らず、み仏は無防御な姿勢のまま、空気にさらされて立っていられた。十七歳の私は、参観の人々の間にもまれて、このみ仏を斜めから仰ぎみつめているうちに涙があふれてきてどうしようもなかった。こんな美しいもの、こんななつかしいものを近々と仰いだのは生まれてはじめての経験だった。古式の微笑のあえかさ、尊さ、あたたかさ、神秘さ、私は魂をじかに仏の掌でなでられたように身ぶるいしていた。美しいもの、尊いものを見て涙がわくということを覚えたのもはじめての経験だった。そしてそれ以来、もう三十年も生き長らえながら、私はあの時ほど無垢な涙を一度も流したことがないのを思い出した。私はそっと同行者の方をうかがった。その人も無言で仏を仰いでいた。縹渺とした古式の微笑に誘われて、今その人の天女てんにょのような趣をさずかり、明らかに千数百年昔の幻の斑鳩のさとに飛び去っていることを感じ、私もまた身動きもせず、息をつめてそこに立ちつくしていた。