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課題集 ユーカリ3 の山

○自由な題名 / 池新
○太陽 / 池新

★私の郷里には / 池新
 私の郷里には、浄蓮の滝という多少名を知られた滝があるが、この滝に遊びに行った時も、帰る時は一番あとになるまいという気持ちが働いた。滝壺の近くで落下する水の飛沫を浴びていても何の怖さも感じなかったが、いざ帰途に就こうとして、いったん滝を背にすると、辺りのたたずまいは一変するかに思われた。(中略)
 山火事は多かった。村の半鐘が鳴ると、大抵山火事だった。半鐘は火事の現場に向かう人たちをあつめるためのもので、いくら半鐘が鳴っても火が見えるわけでも、危険が身近に迫るといった不安があるわけでもなかった。子供たちは生き生きとした。どこか遠いところで容易ならぬことが起こっており、そこへ消防服を纏った大人たちが繰り出して行く。村はいつもの村とは異なった表情をとって来る。
 山火事は、大抵、二月か三月の植え付けの頃が多かった。植え付けの伐採地を掃除に行った者が、枯れ枝などを集めて燃している時、その火が他に燃え移ってしまうのである。火が他に燃え移ることを「火が逃げる」と言った。「火が逃げる」という言い方には、ある感じがあった。私たちには、火が、どこへでも自分の望むところに自由に燃え移って行く生きもののように思われた。私たちは自分の家や囲炉裏やかまどで毎日見ている火とは全く異なった火を頭に描いていた。山火事の火だけが、逃げたり、走ったり、追いかけたりする生きものの火であった。
 その生きものの火を見るためには、山火事の現場まで出向いて行かなければならなかったが、残念なことに、子供たちの行けるところではなかった。一里も二里も離れている天城あまぎ山中の出来事であった。(中略)
 小学校の一、二年の時のことであったと思うが、一度山火事を見に行こうとしたことがあった。馬飛ばしを見に行く時、富士の見える峠を一つ越さなければならなかったが、その富士の見える峠付近で、山火事が起こったのである。
 私たちは村の大人たちの間にはいって長野を目指した。道は上りになっているので、ところどころで休まなければならないが、休むのはそのためばかりではなかった。道ばたに腰を降ろしていると、∵村の大人たちが駈けて行く。消防の若者も居れば、老人も、内儀かみさんも居る。居ないのは、子供たちばかりである。
 ――おい、お前ら、どこへ行く?
声が飛んで来ても、私たちは黙っている。今の言い方をすれば、黙秘権を行使しているのである。何と言われても、黙っている。
 ――火事場などへ行こうと思ったら、とんでもねえことだぞ。帰んな、帰んな。
 しかし、大人たちが行ってしまうと、私たちは腰を上げる。そして駈けたり、歩いたりする。
 長野の集落にはいったが、山火事は見えなかった。大人たちがみんな茅場の方へ出掛けて行ったためか、集落の内部はいやにひっそりとしていた。
 私たちは集落を突っ切って、茅場へ向かう間道かんどうへ出たが、その頃から、何となくみんな家に帰りたい気持ちに揺られ始め、山火事見物の方はさしてどうでもいいような気持ちになっていた。薄暮は辺りにれこめ始めている。
 芥川龍之介に「トロッコ」という作品がある。人夫たちにトロッコに乗せて貰って遠くまで行ってしまい、気が付くと、夕暮れが迫っている。帰りはトロッコに乗るわけには行かないので、夕闇の中を一人で帰って来なければならない。そういった少年のことが書かれている。
 この「トロッコ」を読んだ時、私は山火事を見に行って、山火事は見ないで、途中から帰って来た幼い日のことを思い出した。

(井上靖「幼き日のこと」)