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課題集 ユーカリ3 の山

○自由な題名 / 池新
◎水 / 池新
○流行と自分、競争はよいか / 池新
★明治時代、英語の語学のことを / 池新
 明治時代、英語の語学のことを英学と言った。漢学になぞらえたことばであろうが、漢学がすでに久しく実学の性格を失っていたことを考えると、実学の英語の語学が名前だけ英学と呼ばれようと、漢学と同じような性格のものたり得なかったのは当然であろう。それはともかく、明治時代に早くも精神的要素の加味された近代語の修得が考えられたことは注目に値する。
 自国と外国の国力や文化の関係は三つの場合が考えられる。(一)自国が外国を凌駕している。(二)自国と外国が対等である。(三)外国の方が優越している。実学としての語学が生まれるのは、このうち(三)の場合である。(一)のようなときには外国語が一国の教育的関心事となることはまずあり得ないと言ってよい。
 実学としての語学は、文化的にいわゆる後進国的社会において始まる。外国語は先進国と後進国を結ぶパイプであるが、両者の落差が大きければ大きいほど、このパイプの存在価値も大きい。少しくらい穴があいていても苦情などはきかれないであろう。ところが、受け取り側の文化が発達して来て、先進国との差をつめるようになると、語学というパイプはかつての万能性を失い、無条件の尊重を得にくくなる。水の漏れるようなパイプではこまるという意見が出て来る。落差が少なくなればなるほど、パイプは完全なものが要求されるであろう。すなわち、社会的水準が上がれば上がるほど、語学に対してもきびしい実用性を求めるようになる。もし、それがれられないと、役に立たない語学だという批判が生まれる。現在のわが国の語学は明治時代のそれと比べると非常な進歩をとげている。それにもかかわらず、現在の語学は実用性について明治の語学が受けたことのないような批判の前に立たされている。これは、わが国が欧米諸国との間の落差を縮めて来た証拠である。
 欧米の文物の移入を目的として始まった語学であってみれば、欧米との落差が小さくなって来れば、当然、その実用的性格を変化させなくてはならないはずである。
 もう十数年前のことになるが、実業家の団体から学校の語学教育に対して、もっと役に立つ語学を教えてほしいという注文が出された。日本人の語学は読むばかりで、書いたり会話ができない。これを改善して、会話でも何でもできるようにしてほしいというのであった。これが役に立つ英語といわれるようになったきっかけである。この要望の中には、自覚されているかどうかは別として、外国∵と文化的に新しい関係に入ったわが国として、従来の語学の考えを修整しようという意図が汲みとられる。落差の少なくなった二つのタンクでは穴などのあいていないパイプでなくては、一方から他方へ水を流すことができない。読むだけではだめで、話したり、書いたりもできなくてはいけないという声が出て来るわけである。
 この役に立つ語学を、という意見は大きな反響をよび、世論の支持を受けた。語学の関係者もこれに同調して、教授法の大幅な改変を試みたりもした。その成果にはかなり見るべきものがある。語学教育も一応の近代化をとげたと言ってよかろう。
 しかし、これが依然として、実学としての語学だけを肯定していることは従来と変わりがない。役に立つ語学という意見自体も、その実学の基盤に問題が出て来たために生まれたものだから、実学的性格を強化するだけでは問題の真の解決にはならない。むしろ、実学に代わる新しい文化の学問としての語学が考えられるかどうかが問題にされるべきであったのである。ところがそういう意見はついにきかれなかった。実学の語学からの転換をせまられる事情が生じつつあるのに、かえってよりいっそうつよく実学に固執してしまった。語学の専門家たちが実業界の意向に全面的に賛成してしまったのも不思議である。
 わが国が欧米諸国と肩を並べ、さらにそれを凌駕する日が来れば、実用だけの語学は消滅してもよいことになる。教育の一環としての語学は、そういう時代になってもすこしも価値を減じないものでなくてはならない。実用性が疑問視され出しているいまこそ、語学は文化の学問として新しく生まれかわる好機である。
 わが国のように、独自の文化の伝統をもちながら、国民の大部分が外国語を学習しているというのは、異例に属することであろう。したがって、実用性だけでは語学に注がれる努力の正当化の理由として、薄弱である。その上に役立つ語学はどうしても、思考性を犠牲にしがちである。そういう懐疑ももたれはじめている。

外山とやま滋比古しげひこ「言語と思考」)