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課題集 ユーカリ3 の山

○自由な題名 / 池新
○草 / 池新

★一般に若い人々は / 池新
 一般に若い人々は青春というものを一つの特権と考えている。何をしても、何を望んでも、自分たちには許される、いや許されなければならない、という自信を持っている。これはまだためしてもみない自己の可能性を無限大に見つもって、それを頼む心理であるとともに、子が親に甘え、その庇護を当然のこととして期待するように、人生に甘えている態度、人生を甘く見ている態度でもある。若い人々が高い理想を持ち、大きな希望をいだくことはもとより妨げない。何ごとをもなしうるという自信を持つことも許されよう。しかしかれらがいったんその理想の追求を始めたとき、かれらがかちえたものはことごとく自己の実力によるものであり、かれらがなし得なかったことはことごとく人生の不合理に基づくものであると速断してよろしいであろうか。いうまでもなく世の中には青年の力を借らずしてはなし得ないことがたくさんある。社会の改造のごときはその尤なるものであろう。しかし自分の追求するものが自己の実力の外にあるとき、それより生じる失敗や悲劇の責任を自己以外のものに転嫁することは許されない。青年の犯す過失は、それが青年であるということによって許される場合がしばしばある。しかしそれはあくまで許されるのであって、その責任の解除をこちらから要求する権利はまったくないのである。
 わたしは青年も自らの過失によってしたたかに傷つくことを、また傷つくことを恐れないことを希望したいのである。もしかれらの追求する目的が大きく高い場合には、かれらの流す血は実に美しく、そのような過失は断じて悔恨を伴うことはないはずである。それは若気のあやまちなどではもちろんなく、青春時代の誇りということができよう。
 しかしながらもしかれらが、たとえ自ら意識しないにしても、他人を傷つけるばかりであって、自らはなんの犠牲も払わないとしたら、その記憶は終生しゅうせいかれらを苦しめ、それを思い出すたびに穴があれば入りたい悔恨を起こさしめるに相違ない。だが青春の時代には常に自己を中心にしてものごとを考えやすいために、自己の言動がいかに他人を傷つけているかについてはきわめて鈍感なのである。それとともに自己の能力の限界を知らないことからくる傲慢さ∵のために、他人から与えられた好意や親切にほとんど不感症である場合が多い。子を持ってはじめて親の恩を知るように、人の情けを身にしみて感じるのは壮年期を過ぎてからである。青年期が忘恩の年齢であるといわれるのは理由のないことではない。若い人々がかれらに与えられる好意を自己の才能に対する評価と考えやすいことはいちおうむりからぬこととしても、率直に感謝の気持ちを表現し得ないことを青年の弱点と考える反省が望ましい。
 青年が自己の能力の可能性を無限大に見つもる傲慢さは、正直に自己のぶんを守って着実に生きてゆく人々に対する軽侮の念を生みやすい。これは最もいましむべき点である。人間のほんとうの偉さというものは、人生のさまざまの経験を積んではじめて理解されるのであって、その人の力量はいかにはなばなしい生き方をしたかというよりも、いかに正しく誠実に生きたかによって定まるのである。真に尊敬すべき人を青春時代に発見することのできなかった人は、生涯の不幸というべきであろう。

(河盛好蔵「青春について」)