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課題集 ユーカリ3 の山

○自由な題名 / 池新
○窓 / 池新

★大学生の「私」は / 池新
 大学生の「私」は長兄ちょうけいの次男涼(五歳)の死の知らせを受けて長兄の家へやってきた。涼は長男の卓也(小学校三年生)と家の近くの川原に行き、小舟に乗って蛍を見ていたが、蛍を見るのに飽きて卓也が舟をゆらせて遊んでいるうちに川に落ちて亡くなったとのことであった。卓也が心配だから一緒に寝てほしいと「私」は長兄に頼まれた。
「叔父さん、お父さんはぼくのことをなにか言っていましたか」
卓也の目が、私の顔にすえられた。
「いや、なにも話はしていない」
私はズボンを脱ぎながら答えた。
「お父さん、何か変なんですよ。ぼくが八時ごろお線香をあげに行ったら、あっちへ行けというように手を振るんです。お客さんが帰ってからにしろという意味なんだろうと思ったけど、きつい目をしていたんです」
 卓也の顔に、おびえの色がうかんだ。
「忙しいからさ、そんなことを気にするんじゃないよ。さ、寝よう」
 私は卓也の肩を抱くとベッドに歩み寄った。そして、下段のベッドのタオルケットをまくり腰を下ろした。
 卓也は、黙ったままはしごをふむと上のベッドにあがった。
 私は、部屋の中を見まわして立ち上がると、窓を閉め部屋の灯を消した。そして、頭をすくめながらベッドに身を横たえた。背丈が伸びてからも使えるように作ったらしく、ベッドは決して窮屈ではないが、ふとんに子供の甘いにおいがしみこんでいて、涼のベッドに寝ていることが落ち着かなかった。
 家の中は森閑としていて、人声もきこえない。長兄夫婦が、涼の遺体のそばで黙然と座りつづけている光景が思い描かれた。
「蛍がたくさんいたんです」∵
 卓也のつぶやくような声がした。
 私は、卓也が前夜のことを思い出していることに肌寒さを感じ、やはり涼の死がかれの頭を占めていることを知った。
「そうか、それは珍しいね」
 私は、卓也を哀れに思いながら低い声で答えた。
「どこで生まれるのかな。蛍には川を飛び越える力がないんですね、両方の川岸あたりだけを飛んでいるんです」
 卓也は仰向いて身を横たえているらしく、声が上方の闇にとけこんでいる。その声には、愁いに似たひびきがふくまれていた。
 私は、黙っていた。卓也の頭には、川で起こった事故の記憶がうず巻くようにあふれているのだろう。返事をすれば、卓也の意識は一層記憶の中にのめりこんで感情をたかぶらせ収拾のつかないものになるおそれがある。
「水ってこわいですね」
「そうかね」
 私は、しかたなく答えた。
「涼が落ちたら水しかないんです。のみこんでしまうんですね」
 卓也は訴えるように言った。
 弱ったな、と私は思った。卓也は、仰向いて寝ながら、闇の中に光を放って飛び交う蛍と黒黒とした川の水を思い出している。それは無理もないことなのだろうが、その記憶から一時的にも解放させてやりたかった。そのためには、私が沈黙を守るのが良策だし、卓也に眠りが訪れてくることが望まれた。
 卓也の声はそれきり絶えたが、かれがベッドで身じろぎもせず目を光らせているのが感じとれた。
 しばらくして、私は上のベッドで卓也の起き上がる気配に気づき、振り返った。
「暑いんですけど、窓を開けていいですか」∵
 低い声が、もれた。
 私は、眠っているふりを装って返事をしなかった。
 卓也は、手をのばし静かに窓を開けた。そして再びはしごをふむとベッドに身を横たえたようだった。
 静寂が、ひろがった。冷えた夜気やきとかえるの声が部屋の中に流れこんできている。私の目はさえていた。卓也が目をひらいている間は眠ってはならぬ、と自分に言いきかせていた。
 卓也の寝返りを打つベッドのきしみ音につづいて、かすかにあくびをする気配がきこえた。体に安らぎがわいた。かえるの声が、波の音のように高低を繰り返している。
 眠気が四肢を麻ひさせはじめた。私は、上方でかすかな寝息が起こるのをたしかめてから目を閉じた。

(吉村昭『蛍』)