昨日795 今日428 合計157044
課題集 ユーカリ3 の山

○自由な題名 / 池新
○土 / 池新

★「母語」ということばに / 池新
 「母語ぼご」ということばに私がとりわけこだわるのは、じつは、日本語にはいつの頃からか「母国語」ということばが作られて、それが専門の言語学者によってさえ不用意にくり返し用い続けられているからである。
 母国語とは、母国のことば、すなわち国語に母のイメージを乗せた煽情的でいかがわしい造語である。母語は、いかなる政治的環境からも切りはなし、ただひたすらに、ことばの伝え手である母と受け手である子供との関係でとらえたところに、この語の存在意義がある。母語にとって、それがある国家に属しているか否かは関係がないのに母国語すなわち母国のことばは、政治以前の関係である母にではなく、国家にむすびついている。そのためにこれを区別せずにいつでも「母国語」を用いていると、次のような奇妙なことが生ずる。
 あるとき新聞が「単一民族国家」と思い込まれている我が国において、その例外をなすアイヌ人やオロッコ人が存在することをあらためて思い起こさせてくれる、次のような記事をのせた。
 「(沖縄でおこなわれた教研全国集会でのこと)『平和と民族』分科会では、民族衣装に身を固めた北海道の少数民族ウイルタ(オロッコ)の北川源太郎ことダーヒンニェニ・ゲンダーヌさんの母国語による訴えが静かな波紋をひろげた。それは長年、民族差別の中で苦難の生活を過ごしてきたウイルタの人たちが自らの手で、民族の誇りと文化を守ろうとする自立の宣言であり、それは同時に日本を単一民族国家としてきた日本人の意識の変革を迫るものでもあった。」
 私はここに報じられたゲンダーヌさんの行動はもちろんのこと、また、それを支持して、ひろく世に知らせるために記事にした、この文章の書き手にも共感する。そもそもこういう記事は、言語的少数者が置かれている状況にたいする深い理解なくしては書けないものである。それだけに、「ゲンダーヌさんの母国語」にはめまいを感じるほどの当惑をおぼえたのである。
 ゲンダーヌさんは北川源太郎という日本名の持ち主であるから、たぶん日本国籍の人であろう。だとすれば、ゲンダーヌさんの母国∵は日本で、その母国の言葉は日本語であるから、オロッコ語のことを母国語と言ってしまってはまずいのである。ゲンダーヌさんのことばは、この「母国語」とするどく対立するところの非母国語、非国語であるからこそ、ここにその訴えを報じる意義があったのではなかったか。
 ゲンダーヌさんが用いたことばは、国家とは対極にあって、その国家によって滅ぼされ、滅ぼされつづけてきた、かれ自身のうまれながらの固有のことばなのである。それを母国語と呼ぶ矛盾が、これほどゲンダーヌさんに共感を寄せる記者に気づかれず、さらに数百万の読者からもとりたてて疑問があらわれなかったことに、ことばとその話し手との関係に関する、日本人の平均的な理解度があらわれてはいないだろうか。すなわち、ことばはすべて国語であると考える日本人の考えかたに根深く宿っているこの盲点こそは、この記事がまさに指摘してきた、「日本人を単一民族国家としてきた日本人の意識」をありのままに示しているのである。
 ゲンダーヌさんは日本人の国家、すなわち母国がその使用を保障してくれないことばを生まれながらのことばとして持っている。学校、役所、裁判所のどこにも、そのことばのための場所はあてがわれていない。だから、そのことばはどんなことがあっても母語とはいえないのである。もしかして太古にあったかもしれない、まぼろしの母語を思い描く以外には。

(田中克彦「ことばと国家」)