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課題集 ユーカリ2 の山

★情報という言葉が(感)/ 池新
 【1】情報という言葉が、時代の幟のようにつかわれるようになってずいぶんになります。情報について語られる言葉には特徴があって、それは、ほとんど未来形によって語られるということです。これからの時代になにより求められるのは開かれた情報である、というふうに。【2】「これから」を語るために語られ、論じられてきたのが、情報です。
 反対に、読書をめぐる言葉は、どうかすると過去形によって語られ、「これまで」を語る言葉にとどまっています。【3】今はもう読書の時代ではない、というふうに。けれども、そんなふうに、読書と情報を「これまで」から「これから」へという文脈で語ろうとすれば、誤ります。
 質されなければならないのは、情報のかたちや読書のかたちは、これからどうなってゆくか、ではありません。【4】そうではなくて、いま、ここに、あらためて質されるべきことは、そもそも情報とは、読書とは何だろうかということです。
 いつだったか新聞の家庭欄に載った、とてもきょうみある投書を読んだことがあります。
 【5】結婚している女性の投書でしたが、夫はたいへん本が好きである。何かというと、すぐに本を買ってくる。ただ、全然読まない。積んで置いておくだけなので、家中いまや本だらけだ。【6】夫の買いもとめてきた本を、女性は読んだことがない。自分はたくさん本を読むと思うが、読むときは図書館から借りてきて読む。つまり、こういうことです。夫は本を買うが、読まない、自分は本を買わないが、読む。
 【7】夫の仕事の都合で転勤がつづき、引っ越しが繰りかえされるのですが、引っ越しでいちばん厄介な家具は、じつは本。ものすごくかさばって、ものすごく重いのです。どんな頑丈な家具より、本そのもののほうがずっと重い。【8】それでその女性は、引っ越しのたびに考え込むそうです。読まない本も、どうして引っ越しと一緒にもってゆかないといけないか、と。
 読書についてのおもしろい問いかけが、この投書には隠れています。【9】この女性の夫のように、本を買ってきて読まないというのは、何のための本なのか。
 かつて「積ン読」という言いまわしがありました。読まずに本を積んだままにしておくうちに、なんとなく読んだような気分になる∵のが「積ン読」。【0】本を買ってくるのは、気になって買ってくるのです。気になって本を買うのは、そこにあるだろう情報を手に入れたいから、情報としてその本を求める。しかし、情報の価値は情報を手に入れることにあるので、手に入れれば、とりあえず気持ちは落ち着く。というわけで、本を買ってくる。しかし、読まない。
 この投書の女性のほうは、あくまで読書のための読書を、本に求めている。ですから、べつに本を所有しなくともかまわないのです。
 読んで頭に、あるいは心にしまうという読み方ですから、場所はとらない。荷物にならない。二人で暮らしていて、一人は、本はあるが読まない。もう一人は、本はないが読んでいる。あたかも、一人が情報の文化を代表し、もう一人が読書の文化を代表しているかのようです。
 比喩で言うと、読書は、蜜柑の木のようなもの。情報は、その蜜柑の木になる実のようなものです。実は木からもぎとって、別の場所へもってゆくことができる。あるいは、読書が種蒔きだとしたら、情報はその収穫物です。収穫物は、別の場所へ動かすことができる。しかし、動かずにそこにあるのは、木であり、畑です。そのように、ひとの心の風景のなかにある、実のなる木であり、種子を蒔く畑であるのが、読書です。
 今日の暮らしをささえている仕組みというのは、大雑把に言えば、モノを生産し、製造する。そして生産され、製造されたモノが物流し、流通していって、日々の土台というべきものをつくっている、その伝で言うと、読書というのは生産・製造に似ています。そして、情報というのは物流・流通に似ています。
 生産・製造に似ているというのは、たとえば種を蒔くこと、蜜柑の木を育てることといったことには、どうしても必要なものがある。必要なものは、努力です。育てるということに十分に努力しなければ、穫り入れは期待できない。
 ところが、ひとがモノを手に入れるのは、それを享受するため、ということです。ですから、どれだけ自由に楽しむことができるか、享受することができるか、という人びとの要求に、どんなふうにこたえられるかが、物流・流通の基本です。
 その対比を用いれば、読書の核をなすのは、努力です。情報の核∵をなすのは、享受です。読書は、個別的な時間をつくりだし、情報は、平等な時間を分け合える平等の機会をつくりだします。つまり、読書と情報は、一見とてもよく似ている。似ているけれども、おたがい似て非なるものです。読書は情報の道具ではないし、情報によって読書に代えるというわけにはゆかないからです。
 簡単に言ってしまえば、読書というのは「育てる」文化なのです。対して、情報というのは本質的に「分ける」文化です。

(長田 弘「読書からはじまる」より)*一部表記を改めたところがある。