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課題集 ユーカリ の山

★ある朝、私は一冊の(感)/ 池新
 【1】ある朝、私は一冊の本と、ひときれのパンをポケットに入れて家を出て、気の向くままに歩いて行った。少年時代にいつもそうしたように、私はまず家の裏の庭へ入った。そこにはまだ日が当たっていなかった。【2】父が植えたモミの木立、私がまだほんの幼い、細い若木だったのを覚えているモミの木立ががっしりと高くそびえ、その下にはたん褐色の針葉が積もっていた。【3】そこには数年来ツルニチニチソウのほかは何も育とうとしなかった。が、そのかたわらの細長い縁どり花壇には、母の植えた宿根草が生えていて、豊かに、楽しげに花をつけていた。
 【4】休日のくつろいだ気分で、私は花から花へと歩き、あちらこちらで芳香を放つ散形花の匂いをかいだり、指先で注意深くひとつの花のがくを開いてのぞきこんで、神秘的な白っぽい色のうてなと、花弁の脈や、めしべや、やわらかい毛のあるおしべや、透きとおった導管などの絶妙な配列を観察したりした。【5】そのあいだに私は雲の多い朝の空を眺めた。そこには、細い綿となってたなびく霧と、羊毛のようにふわふわした小さなうろこ雲が、奇妙に入り乱れて広がっていた……。
 不思議な、あるひそかな不安を感じながら、私は少年時代に喜びを味わった、なじみの場所を見まわした。【6】小さな庭や、花で飾られたバルコニーや、湿った、日の当たらない、敷石が苔で緑色になった中庭が私を見つめた。それらは、昔とは違った顔をしていた。花たちさえもつきることのないその魅力をいくぶんか失っていた。【7】庭の隅に古い水桶が水道の栓とともにひっそりとそっけなく立っていた。そこで昔、私は木の水車をとりつけ、半日ものあいだ水を出しっぱなしにして、父を悩ましたものだった。路上にダムや運河を築いて、大洪水を起こしたのである。【8】風雨にさらされたその水桶は、私にとって忠実なお気に入りで、気晴らしの相手であった。それを見つめていると、あの子どもの頃の喜びの余韻さえパッと心に浮かんでくるのであった。が、それは悲しい味がした。【9】その水桶はもう泉でもなく、大河でもなく、ナイアガラの滝でもなかった。∵
 物思いにふけりながら、私は垣根をよじ登って越えた。一輪の青いヒルガオの花が、私の顔にかるく触れた。私はそれを摘みとって口にくわえた。【0】そのとき私は、散歩をして、山の上から町を見下ろしてみようと心に決めていた。散歩をするのも、本当に楽しい企てではなかった。以前ならば、決して思いつくことなどなかっただろう。少年は散歩などしない。少年は、森へ行くなら盗賊か、騎士になって行く。川へ行くなら筏乗りか、漁師か、あるいは水車作りになって行く。草原へ走るのは、蝶の採集かトカゲ捕りに行くのだ。こうして私の散歩は、自分が何をしたらよいかわからない大人の、上品だが少々退屈な行為のように思われた。
 青いヒルガオはまもなくしぼんで投げ捨てられた。そして今度はもぎ取ったブナの小枝をかじった。苦い、香ばしい味がした。高いエニシダの生えている鉄道の土手のところで一匹のみどり色のトカゲが私の足もとを走って逃げた。すると、また私の心に少年の気持ちがふっと目覚めた。私はじっとしていられず、走ったり、しのび寄ったり、待ちぶせしたりして、ついに日に当たって温かなおくびょうなトカゲを両手に捕らえた。私はその光沢のある、小さな宝石のような眼をのぞきこみ、少年のころの狩りの楽しみの余韻を味わいながら、そのしなやかで力強いからだと固い足が私の指のあいだで抵抗し、突っ張るのを感じた。だがそれからよろこびは消えてしまった。捕まえた動物をどうしたらよいのかまったく分からなくなった。どうすることもできなかった。それを持っていてももう幸福感はなかった。私は地面にかがみこんで、手を開いた。トカゲは一瞬おどろいて、横腹をはげしく息づかせながらじっとしていたが、それからわき目もふらずに草の中へ姿を消した。汽車が輝く鉄路を走って来て、私のそばを通り過ぎた。それを見送った私は、一瞬非常にはっきりと、ここではもう私の本当のよろこびが花咲くことはないと感じた。そしてあの列車に乗って世の中へ出て行きたいと、心の底から思った。
 (ヘルマン・ヘッセ作 フォルカー・ミヒェルス 編 岡田朝)