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課題集 ユーカリ の山

★何でもよく知っていて(感)/ 池新
 【1】何でもよく知っていて、次から次へと、どんな問題についても、よく話をする人がいる。じっと聞いていると、話している内容は、ほとんどが新聞や雑誌に出ていたこと、あるいはテレビで誰かが話していたこと、つまり「情報」なのである。【2】それを右から左へと流しているだけのことだ。話のある部分について、疑問点を確かめたいと思って詳しく聞くと、はっきりした「知識」を持っているわけではないから答えられない。【3】しかも、「情報」をほとんど受け売りしているだけで、その中身を自分の考えによって吟味していないから、どんな話をしてもその人の人生経験に照らした上での「知恵」になっていない。【4】わざわざ「情報」「知識」「知恵」という三つのことばにかぎカッコをつけたのには意味がある。人の話を聞く時、その内容を、この三つに分類しながら聞くと、なかなか面白いからだ。【5】むろん情報を得たいと思って話を聞く時には、情報が的確に得られれば良いので、うまく情報を伝えてくれる人が好ましい。また知識についても同じことが言える。三番目の知恵が、最も興味深い分野である。知恵があるかどうかは学歴などとはまったく関係がない。【6】世の中には、情報には疎いかもしれないが、豊かな人生の知恵を持った人がいる。そうかと思うと、情報にはやたら詳しいのに、まったく知恵のことばを吐かない人がいる。【7】そして、人間として魅力があるのは、もちろん知恵のある人である。取材していてもはっとさせられるのは知恵のことばを聞く時である。普段は無口だが、口を開けば知恵のことばを語るという人がいる。【8】しっかりと生きてきた、その個人の存在を感じさせられる。対照的に情報ばかりをぐるぐるまわし続け、情報に踊らされる人の人生とは何だろう、と思わされる。知恵があるかないかは、いつに、ものを自分の頭でじっくりと考えているかいないか、の違いではないかと思う。
 【9】T・S・エリオットという名の詩人がいる。この人の詩に、右の三つを読み込んだ、こういう文章がある。「私たちが、知識の中で失った知恵はどこにある。私たちが、情報の中で失った知識はどこにある。」これは、長い詩の一部である。【0】三つのものについてエリオットが考えていたこと、三者の関係をどうとらえていたかと∵いうことが、ここにうまく表現されている。(中略)
 最近の世相を評するのによく使われるのは、いわゆるマニュアル文化ということばである。ある時、作家の山田太一さんと話す機会があった。いろいろな話の中で、マニュアル文化の話が出た。そうしたら、彼がこういう実例をあげた。知り合いの有名な俳優が、芝居の稽古の合間にファーストフードの店に行ったというのである。一座の人々の昼食を買うためで、ハンバーガーか何かを二十数個、買うつもりだった。注文したら、注文を受けた娘さんが、それを復唱したあと、「ここでお召し上がりになりますか。」と聞いた。俳優はあっけにとられた。「おい、よく見ろよ。ここにいるの、おれ一人じゃないか……。」娘さんは、マニュアルに沿った応対をし、決められた順序で、決められた発言をしただけなのだろう。忠実なのはいいが、目の前の現実を見て考える、という自分の能力と自由とを忘れているとしか思えない。山田さんとしばらく笑ったあと、笑い事ではないですね、という話になった。
 新聞のコラムを執筆していて、考えるということについて大いに考えさせられた。いまの教育は、家庭でも学校でも、十分に考える訓練をしているだろうか、子どもは自分の頭でじっくり考えるためのゆとりを与えられているだろうか、という疑念が頭を離れない。むろん、間題は子どもだけではない。フランスに、ジャン・ギットンという哲学者・神学者がいる。この人の本に、こういう一文がある。「学校とは一点から一点への最長距離を教えることであると、私は言いたい。」思うに名言である。私は、このことばをよく思い起こす。ある人々は、最長距離と聞いただけで、耐えられない長さと想像するかもしれない。その最長距離を、道草のように思う人もいるかもしれない。しかし、子どもは自分の頭で考えたり、感じたりしながら、長い長い距離を歩き、それによって自分らしい成長をとげるのである。ギットンは何よりも、考えることの大切さを説いた。考える訓練をしなければならないのは子どもばかりではない。教師も大人も同様である。さきに述べた「情報」と「知識」と「知恵」の三つに即して言えば、先生が教室の中で話したことの中で子どもが成人した後もいつまでも覚えているのは、たいてい「知恵」のことばである。 (白井健策「天声人語の七年」から)