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課題集 ビワ3 の山

○自由な題名 / 池新


○我々がペンを / 池新
 我々がペンをとって何かを書くということは、言葉を開拓していくということと同じ意味をもつ。この開拓によって自己というものが形成されていくのである。言葉の不自由な性質そのものが言葉を開拓する原動力になるのだ。こうした性格が逆に我々を幾たびも考えさせ、迷わせ、あるいは邂逅をうながすといってもいい。
 つまり言葉というものに翻弄される自分自身を見出みいだすということが、読書日記をつける一つの利益なのだ。さまざまな言葉に翻弄されながら、そしてその極限に見出すものは何かといえば、あらゆる種類の言葉を組み合わせてもなお表現することのできない「沈黙」というものだ。これはだれでも日常経験することで、たとえばある本を読んで非常に感動したとき、あるいは思い惑うたとき、どんな現象が起こるか。まず言葉を失っている自分自身を見出すであろう。心の中であれこれと思いめぐらしてみるが、さて口に出そうとしたり、自分でペンをとって表そうとすると、どう表現していいかわからなくなることがある。たちまち言葉に窮して沈黙せざるをえなくなる。
 真の感動は必ずこういう現象を起こすもので、ここに生ずる沈黙状態を私は重視したいのだ。なぜならいま述べたような意味で言葉を失うということは、反面からいうと心の充実を意味するからである。言おうと思っても容易に表現しきれない、そこに人間の心の真実が芽生える。しかもそういう真実ほど人に告げたい、あるいは表現してみたいという欲望を起こさせる。こうした苦しみ、つまり言葉の障害と格闘し、開拓し、この苦闘の中に人間の精神は形成されるのである。
 自分の言葉をもつということは至難なことだ。我々は自分の言葉だと称しながら、いかにしばしば他人の言葉を使っているか。有り合わせの言葉を用いたり、世間一般の流行語を無批判に使っているが、いうまでもなくそれは精神の死である。自分の言葉をもつということは、自分が生まれることだ。むろんそこには固有の体験と、あわせてその体験への正直な思索がなければならぬ。そうして発した自分の言葉は、その人の生命の曙だといってよい。「生命は力なり。力は声なり。声は言葉なり。新しき言葉はすなはち新しき∵生涯なり。」とは若き島崎藤村しまざきとうそんの詩集の序文の一節だが、新しい言葉、つまり自分で苦闘して考えぬいた言葉は、その人の生命をひらくのだ。

(亀井勝一郎「読書論」)

○■ / 池新