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課題集 ビワ3 の山

○自由な題名 / 池新


○歌枕――、それは / 池新
 歌枕――、それは古来、多くの歌人によって和歌に詠じられてきた名所である。
 たとえば須磨、たとえば逢坂……。しかし、現代ではもはや、それは心ときめくあこがれの地などではなくなってしまった。
 文明の発達は、大きかった地球をしだいに小さくしてしまったといった人があったが、そうした現象は、この小さな日本という島国においては、いっそう無惨に進行した。いま、名所、旧跡、景勝のたぐいは行楽の地となり、その連想として脳裏に思い浮かべるものは、散乱する紙屑や塵芥じんかいの放つ悪臭、ジュースのあき缶、人ごみと疲労感と、腹だたしいむなしさ等々である。
 いわば勝地歌枕とは、まさに名実ともに滅びきって、現代にはあとかたもない非在の場所であるのだ。
 にもかかわらず、いや、それゆえにといった方がよいかもしれない。私はこのごろしきりに歌枕への旅という郷愁にかられる。一枚の地図を広げて、自在に指にたどり、目に追うその非在の地は、いまなお白砂青松、山紫水明、あきあきするくらいの年月を降り積もらせて、ふしぎなしずけさとともにある。そして、かの惨憺さんたんたる現実と直面しないかぎりは、その甘美な、美的連想をよび起こす快いひびきをもった地名を舌頭にころがすままに、それはなつかしい心のふるさととしての叙情をよみがえらせ、まるでみずやかな思想のようにたちあらわれる。
 この、ふしぎな絆に結ばれたまま、累年の親愛とともにある非在の地への郷愁は、あるいはかつて、「居ながらにして名所を知る」と、詩心を誘った歌の心そのものへの郷愁なのかもしれない。
 旅行をする機会はきわめて多いが、なぜかそれは「旅行」という、どこか事務的な日程に追われた時間であって、「旅」という味わいにみたされることが少なくなってしまった。そうした旅の味わいが何にさまたげられているのかを考えてみると、点から点への過程が含まれていないわけではないが、その過程はきわめてすみやかで、そこにはただあわただしい移動の心と目が、人という主体をは∵なれ、目的地への短絡のみを求めているようだ。
 「くたびれて宿かるころや藤の花」と詠じたのは松尾芭蕉であったが、この「くたびれて宿かる」という行程によってはじめて、旅中の「藤の花」はいきいきした表情をもって問いかけてくる。旅について、それは「遠さを味わふ」心だといったのは三木清であったが、この松尾芭蕉の夕暮れの藤の花も、三木風にいえば、日常から離れて漂うはるかな浪漫的心情の中で、優しく人めいた一世界を獲得しているといえるだろう。しかしながら、現代において、旅と人生を重ねて詠歎えいたんすることなどは、もはや陳腐な感慨になってしまった。そして、旅はきわめて安易になり、他人まかせになり、その、移動の過程がもっていた旅の心は、ようやくその本質を失おうとしている。
 それはちょうど、われわれの風土がまだゆたかな未知の天地にめぐまれていたはるかな過去、都として開けていた山城や大和の盆地に住んでいても、一生のうちに海を見る機会をもつことなく、人づての語りごとや、詩歌をとおして空想の中で、架空のイメージをはぐくみながらそれでも海の広さや波しぶきの美しさを歌った歌人たちがいたことと、全く逆な現象だといえるだろう。そして、歌枕とは、そうした旅の困難にみちていた時代の、詩的あこがれの中にあった地であり、多くの先人の詩歌の重なりの中に育まれた心の旅路なのである。

(馬場あき子「歌枕をたずねて」)

○■ / 池新