課題集 ビワ3 の山
苗
絵
林
丘
○自由な題名
/池
池新
○君たちの船は
/池
池新
君たちの船は悪鬼に逐い迫られたようにおびえながら、懸命に東北へと舵を取る。磁石のような陸地の吸引力からようよう自由になることのできた船は、また揺れ動く波の山と戦わねばならぬ。
それでも岩内の港が波の間に隠れたり見えたりし始めると、漁夫たちの力は急に五倍にも十倍にもなった。岸から打ち上げる目標の烽火が紫だって暗黒な空の中でぱっと弾けると、さんさんとして火花を散らしながら闇の中に消えていく。それを目がけて漁夫たちは有る限りの艪を黙ったままでひた漕ぎに漕いだ。その不思議な沈黙が、互いに呼び交わす叫び声よりもかえって力強く人々の胸に響いた。
船が波の上に乗った時には、波打ちぎわに集まって何か騒ぎたてている群衆が見やられるまでになった。やがて嵐の間にも大砲のような音が聞こえてきた。と思うと救助縄が空をかける蛇のように曲がりくねりながら、船から二、三段へだたった水の中にざぶりと落ちた。漁夫たちはその方へ船を向けようとひしめいた。第二の爆声が聞こえた。縄はあやまたず船に届いた。
二、三人の漁夫がよろけ転びながらその縄の方へかけ寄った。
音は聞こえずに烽火の火花は間を置いて怪火のようにはるかの空にぱっと咲いてすぐ散っていく。
船は縄に引かれてぐんぐん陸の方へ近寄って行く。水底が浅くなったために無二無三に乱れたち騒ぐ波濤の中を、互いにしっかりしがみ合った二艘の船は、半分がた水の中を潜りながら、半死のありさまで進んでいった。
君ははじめて気がついたように年老いた君の父上の方をふりかえってみた。父上は膝から下を水に浸して舵座にすわったまま、じっと君を見つめていた。今まで絶えず君と君の兄上とを見つめていたのだ。そう思うと君はなんともいえない骨肉の愛着にきびしく捕らえられてしまった。君の眼には不覚にも熱い涙が浮かんできた。君の父上はそれを見た。∵
「あなたが助かってよござんした。」
「お前が助かってよかった。」
両人の眼はとっさの間にも互いに親しみをこめてこう言い合った。そしてこの嬉しい言葉を語る眼から互い互いの眼は離れようとしなかった。そうしたままでしばらく過ぎた。
君は満足しきってまた働き始めた。もう眼の前には岩内の町が、君にとってはなつかしい岩内の町が、新しく生まれ出たままのように立ちつらなっていた。水難救助会の制服を着た人たちが、右往左往にかけめぐるありさまもさまざまと眼に映った。
なんともいえない勇ましい新しい力―――上潮のように、腹のどん底からむらむらとわき出してくる新しい力を感じて、君は「さあ来い。」と言わんばかりに、艪をひしげるほど押しつかんだ。そして矢声をかけながら漕ぎ始めた。涙があとからあとから君の頬を伝わって流れた。
今まで黙っていたほかの漁夫たちの口からも、やにわに勇ましいかけ声があふれ出て君の声に応じた。艪は梭のように波を切り破って激しく働いた。
岸の人たちが呼びおこす声が君たちの耳にも入るまでになった。と思うと君はだんだん夢の中に引きこまれるようなぼんやりした感じにおそわれてきた。
君はもう一度君の父上の方を見た。父上は舵座にすわっている。しかしその姿は前のように君になんらの迫った感じをひき起こさせなかった。
やがて、船底にじゃりじゃりと砂の触れる音が伝わった。船はとどこおりなく君が生まれ君が育てられたその土の上に引き上げられた。
「死にはしなかったぞ。」
と君は思った。同時に君の眼の前はみるみる真っ暗になった。……君はその後を知らない。
(有島武郎「生まれ出づる悩み」)
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/池
池新