昨日582 今日493 合計160318
課題集 ビワ3 の山

○自由な題名 / 池新

○結果と過程、ライバルはよいか / 池新
○あの荒地へ / 池新
 あの荒地へ水を引く法があるのかと、城へ帰ってから昌治まさはるがきいた。およそ三十年ほど前に、その案を申請した者がおります、と小三郎しょうざぶろうは答えた。井関川の上流から特殊な方法で堰を掘ると、荒地へ水を引くことができる。その方法を図面にして申請した書類が、いまでもわが家の蔵書の中に残っている、と小三郎しょうざぶろうは熱心に付け加えた。
「いまの老臣どもはそれを知っているのか」
「わかりません」と小三郎しょうざぶろうは口ごもった、「滝沢御城代じょうだいは知っておいでだと存じますが、どうやら御内福と評判の藩としては、このうえ物成りを殖やして、幕府ににらまれることをおそれているのではないか、というような評を聞いたことがあります」
「一度その図面を見よう」昌治まさはるはそういって小三郎しょうざぶろうの眼を見つめた、
「――明日は剣術の相手を申し付けるぞ」
「こんなことを申し上げてはお怒りを受けるかもしれませんが」小三郎しょうざぶろうはよく思案しながらいった、「あまり一人の人間をごひいきあそばしては、家中かちゅうへのしめしがつかなくなるのではございませんか」
「おまえは滝沢の伜のことをいっているのか」
「誰とは限りません、わたくしはもう三十余日も、お忍びのお供をしております、これでは家中かちゅうの噂にならずにはいません」
「噂になっては悪いか」
「お側小姓は五人、ほかの者にもお目をかけていただきたいのです」
「よし、聞いておこう」昌治まさはるはいった、「だがおれは、おれの好きなようにする、ということも覚えておけ」
 小三郎しょうざぶろうは低頭してさがった。
 昌治まさはるは四月に初入国をしてからまもなく、忍び姿で城の搦手をぬけだし、小三郎しょうざぶろうだけを供に領内を見てまわった。それ以来三十余∵日、雨風にかかわらず、その見回りは休まずに続けられた。初めのころ、小三郎しょうざぶろうは自分のしらべた領内踏査の帳面を見せた。昌治まさはるはあまり興味をそそられたようすはなかった。小三郎しょうざぶろうだけを供にするようになったのはそのあとのことだが、踏査帳を見せろとは二度といわなかった。この忍びの巡視は厳重な秘密にされていたが、藩主がこのように出あるけば噂にならずにはいない、まして供はまだ十五歳の小三郎しょうざぶろうひとりである。口に出してこそなにもいわないが、自分を見る人たちの白い眼がしだいに露骨になってきたことを、小三郎しょうざぶろうは敏感に気づいていた。
 そして梅雨にはいったある日、彼が勤めを終わって下城してくると、材木倉のところで十人ばかりの少年たちに取り囲まれた。としは十五、六から十七、八どまり、みな従士組かちぐみの子たちで、ほとんど知っている顔だった。
「ちょっと聞きたいことがある」と今原修平という少年がいった。「裏の原まで来てもらおうか」
 小三郎しょうざぶろうは彼らが、みな木剣を持っていることを見てとり、なんの用かときき返しながら、いつかのときと同じだな、と思った。「原へいってからわけは話す」と今原は怒ったような声でいった。「ここでは邪魔がはいる、あるけよ」
 彼らは四方をかためた。小三郎しょうざぶろうはおとなしくあるきだした。まえには尚功館しょうこうかん、目見え以上の子弟だったが、こんどは父の組下の徒士の子たちだ、上からも嫌われ、下からもそねまれている。父のいったことは事実だったんだなと、あるきながら小三郎しょうざぶろうは思った。けれど、おれはへこたれもしない、力以上の無理押しもしないぞと。――雨はやんでいたが、原の雑草は濡れているので、小三郎しょうざぶろうはじめ彼らの袴も、裾のほうはずっくり濡れてしまった。

(山本周五郎「長い坂」)

○■ / 池新