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課題集 ヤマブキ3 の山

○自由な題名 / 池新
○マスコミ / 池新
★清書(せいしょ) / 池新

○日本の人里の、何もきわだって / 池新
 日本の人里の、何もきわだって美しいといえない風景の中にも、最近とくに知られるようになり、若い人たちが訪れる場所ができ始めた。京都の嵯峨野などは、そうした場所の一つに数えられるだろう。また大和の山のの道も、だんだん人気が出てきたようである。だが、これらの場所は、実は、完全な自然の風景ではなく、背後にひかえている歴史の重みが加わって、その価値を高めているのだ。風景を考えるとき、これは非常に重大な点である。
 その地の歴史を知ることにより、平凡な風景、ありふれた小山が、見る人びとをたちまち深い感興を催す。きっかけは、歴史だけではない。芭蕉の俳句に詠まれたいくつかの風景は、その地に行って、ゆかりの風物を見る現代人の心に深い感慨を呼び起こす。風景は、見る人の心によって変わる。風景の価値は、その現在の実体と、過去を思う観賞者の心の交渉のうちに成立する。
 風景の要素には、歴史が大きくかかわるだけではない。自然に対する知識が、なかなか大きく作用する場合がある。名もない花が咲いているのをただ見るだけでなく、その花の名が全部わかり、そのあるものがその土地にあることの意外性といったことがわかり、その育ちぐあいの良さ悪さまでわかったら、興ざめになるどころかかえっていっそう印象が深まるというものだろう。向こうの丘陵の雑木林の中に、若葉をつけたコブシの木の群れを見いだし、二か月前の花のころの光景を想像に描くのは悪い趣味ではない。まわりで鳴く小鳥の声を聞いて、その鳥の種類がわかるのも楽しい。ツキヒホシポイポイと形容されるサンコウチュウの鳴き声を、珍しくも人里近くで聞いた時のうれしさは、風景のよさと必ずしも異縁ではない。
 日本の風景で、今まで人がほとんど注意を払わなかったものに生けがきがある。農村の住宅は生けがきで囲った家が多い。農村の生けがき用の樹種は、都会の住宅地より単調な場合が多いが、そのかわり年を経た貫禄のあるものが少なくない。生けがきというものは、手入れのぐあいで、実にさまざまな態様をしていて、見る人の心を刺激するものである。
 人の住んでいる風景と関係するものには、もっと人間くさいもの∵がたくさんある。向こうのあの松の下の家のおばあちゃんは梅干を漬けるのが上手で、その隣の家の息子は野球選手で甲子園に出場したことがあるなどと知っていたら、その興の深さはどうだろう。そんなことは、風景とは関係ないと言う人がいるかもしれないが、私は何か関係があるという意見である。
 日本の、人の住む風景には、心温まる潤いと豊かさをそなえたものが、いたるところにある。それは、いろいろな自然・人文の知識に裏打ちされいっそうの興趣を盛り上げる。自分もそこに住み込んで、朝夕その中に溶け込みたいような風景……いや、それよりも「風土」といったほうが適切な場所が、まだまだ、日本にたくさん残っているのである。

(中尾佐助「私たちの風景」)