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課題集 ヤマブキ3 の山

○自由な題名 / 池新
○ペット / 池新

★「自分」の一生を生きるというが / 池新
 「自分」の一生を生きるというが、「自分の」といっても、どうにでも自分の思うとおりになるものではない。それどころか、むしろ、わたしたち一人ひとりの一生、一人一人の存在は、現実の社会関係の中で、様々に条件づけられ、決定されている。自分の生まれた国、生まれた社会、生まれた時代、生まれた境遇、等々によって、わたしたちはそれぞれ、自分の意志や意向とかかわりなく、一定の過去を背負っている。また、その延長上におのおの自分の歩いてきた道がある。そこには、勝手に帳消しにしたり抹殺したりすることのできない、人それぞれの生がある。
 たとえ自分から見て他人の置かれている立場がどんなにうらやましくとも、また逆に、他人の不幸な境遇にどんなに同情しても、わたしたちは個人として他人とすっかり入れ替わることはできない。他人の立場に身を置くということは、わたしたち人間の相互理解のための大切な行為であり、人間の重要な特性の一つである。けれどもそれは、一定の限度の中で可能であるにすぎない。結局自分は自分でしかあり得ない。自分は自分だけで成り立っているのではなく他人との関係のうちに成り立っているにしても、それでも自分は自分でしかあり得ないのだ。そして、このように自分は自分でしかあり得ないということの確認は、決して尊敬、愛、友情、哀れみ、共感などに基づく他人との結びつきを断ち切るものではなく、かえって他人との結びつきを強めることになるだろう。
 こうして、われわれ一人一人によって、「自分」の一生とは、「ほかには成り替われない」一生ということになる。しかし、だからといって、それは何もかもすべてが決定されていて、自由な選択が全くできないということではない。これまでの過去については、条件づけとして、動かすことができないにしても、言い換えれば、それぞれに固有の過去を背負い、幾重にも条件づけられてはいても、その上でなお多くの可能性や選択の余地が残されている。それが人の一生というものであろう。また、たとえ一人一人の背負っている過去は動かせないとはいっても、それは事実としてのことにすぎない。一人一人がその過去を、過去の諸事実を、どのような意味を持ったものにするかは、現在の、またこれからの問題である。過去による限定は意味にも及んでないわけではないが、それは絶対的∵なものではない。更に、今後の可能性ということになれば、生きていくその時々の各人の道の選び方や決断、それに意志的な努力によって大きく変わり得るのである。
 各人の道の選び方や決断といったが、それははっきりした人生の重大な岐路に立っての選択や決断のようなものばかりではない。選択や決断は、もっと目立たないかたちでわたしたちの日常的な生活の中でも求められることである。テレビやチャンネルを選ぶことだって選択であり、テレビを見ていていつ立とうかと思うのだって決断である。選択し、決断することは、わたしたちが惰性に流されるのではなく、自覚的に生きようとすれば、いつでも伴ってくる。だからそれは、毎日毎日の生活の中で絶えず新鮮なものを見いだすこと、またそういう在り方を積み重ねていくことにも結び付くのである。その場合、偶然的な要因が大きく働くこともあるだろう。それをも取り込んで役立てつつ、一人一人が職業のうちにせよ、社会的な活動のうちにせよ、趣味のうちにせよ、自分の進む道を見いだすことができれば、各人それぞれの一生は、いっそう「自分」のものになる。

(中村雄二郎「哲学の現在」)

○■ / 池新