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課題集 ヤマブキ3 の山

○春になると、隣家の庭の/ 池新
 春になると、隣家の庭のはく木蓮が一斉に花を開く。その姿は薄闇の中で眺めるのがいちばん美しい。しかし、いま書きたいのは隣家の木ではない。身近な花の美しさによって呼び出されたような、もう一本の木のことである。
 ある日の午後、階下の西向きの窓からぼんやり外を見ていた。そのころまだわが家の西側に建物はなく、空き地ぞいの道を隔ててかなり遠くまでの景色が楽しめた。ふと気がつくと、道の向こうの家の庭木の間から一本の白い樹木が立ち上がっている。いや、満身に白い花を飾った丈高い木が目に飛びこんできたのだ。その家の庭にある木ではない。更に遠くに立っているものが庭木ごしに望まれたのだ。おそらく、木は以前からそこにあったのだろう。ただ純白の花をまとうまで、こちらが気づかなかっただけに違いない。白木蓮はくもくれんにしては、丈が少し高すぎる。しかし辛夷こぶしにしては、あまりに花が大ぶりで木の全体を包みすぎている。家の者に尋ねても、その木を見るのは初めてであり、どのあたりに生えているのか見当がつかぬという。まるで突然に出現したかのような、白く燃える美しい木だった。
 次の日も、次の次の日も、木は同じように立っていた。というより、更に白い輝きをまして西の窓外に目を誘った。ついにたまらなくなって家を出た。駅とは反対の方角なので、平素はあまり足を運ばないあたりである。歩き出すとすぐに相手は見えなくなった。道からでは近くの家の庭木がじゃまをするからだ。はじめは駅へと向かい、次に右折を二度重ねてもう一本先の道へと曲ってみた。わが家からの見え方からすれば、その道の左右いずれかにあるはずだ。最初の日、とうとう発見することはできなかった。帰って西側の窓辺に立つと、木はくっきりと曇り空を背景にたたずんでいるのだった。
 翌日、二度目の探索におもむいた。そして前日と同じ道の右側に、二階家の壁に隠れるようにして花を咲かせている大きな白木蓮はくもくれんを見つけ出した。そしてひどくがっかりした。近くにそれらしい木はないので間違いないと思われるのに、見る角度が異なるためか、相手は窓から眺めたときのような気高い美しさをたたえてはいなか∵った。こんなことならさがし出さなければよかった、といたく後悔した。
 それから間もなく、空き地に家が建てられて西向きの窓からの眺めを奪った。遠い白木蓮はくもくれんはわが家の視界から失われた。その木はいま、ぼくの中だけに一年中白い花を咲かせてひっそりと立っている。

黒井千次くろいせんじ「五十代の落書き」)