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課題集 ヤマブキ3 の山

○自由な題名 / 池新
○服 / 池新

★正三はまたひとかどおとなのような / 池新
 正三はまたひとかどおとなのような口ぶりで、
「だいじょうぶさ。ぼくがついて行くんだから。まあ、心配しないでください。」などというのだ。
 それを聞いていると、矢牧はふと昔のことを思い出した。彼がちょうど今の正三の年に中学二年生の兄と二人で、夏休みに父の郷里の四国へ行ったのだ。
 天保山という桟橋から小松島行きの船に乗ったのが夜であった。父といちばん上の兄が見送りに来てくれた。(このとき、長兄はたぶん、中学五年生であった。どうしていっしょに行かなかったのか、それは覚えていない。)
 矢牧は、夜のことを覚えている。船の出発は朝とか昼間で、それも晴れた日には気持ちのいいもので、そんなときはいかにも出帆という広々した感じがするものだ。
 ところが、夜の船着場というのは、昼間とはすっかり違った空気が漂っている。それはとてもわびしい感じのするものだ。そのときは中学二年生の兄が矢牧の保護者であった。そして矢牧は兄と二人でする旅行を心細くもなんとも思ってはいなかった。
 兄のほうは家を出るときまではゆうゆうとしていたのだが、いよいよ船に乗って出帆の時刻が間近になると、変になってきた。
 父がアイスクリームを買ってきて
「ほい、これ。」
といって渡しても、心はアイスクリームになく、ただ受け取るばかりで、あとは父と兄がなんといっても、ただ「うん、うん。」といっていた。
 そのことは、後になって父がよく思い出して笑いながら話したので、兄弟の間では有名になってしまったのだ。
 矢牧はそのとき、兄が心細い様子をしていて、父の眼には今にも涙ぐみそうに見えたということは、ちっとも気がつかなかった。たぶん、安心しきっていたのだろう。
 兄にしてみれば、生まれて初めてのひとり旅であり、それに小さい弟を連れているので、なおのこと責任が重く、船がまだ港を離れないうちに、(これはたいへんなことになったぞ。)という気持ちでいっぱいであったにちがいない。
 四国の山の奥にある父の郷里には、祖父と叔父がいる。そこまで行くのには、この船があくる朝、小松島に着いて、それから汽車に∵乗りかえて徳島まで行き、そこからまたバスに乗っておおかた一日かかるのだ。
 その道順を思っただけで、出発の日まで兄の心をみたしていた、親から離れて単独旅行をする愉快さは、たちまちどこかへ消え去ってしまったのだろう。
 何をいわれても「うん、うん。」とだけしか返事しなかった頼りなげな兄のすがたは、初めて子供二人だけ旅行に送り出す父の心に深く印象に残ったのだ。
 その夏休みからもう二十何年もたって、いまは矢牧がそのときの父の立場にいなっているのであった。

庄野潤三しょうのじゅんぞう「ザボンの花」)

○■ / 池新