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課題集 ヤマブキ2 の山

★相手がにっこりすると(感)/ 池新
 【1】相手がにっこりすると、思わず私もにっこりします。これは相手がほほ笑んでいるから、こちらもほほ笑み返さなければ礼儀上悪いと思ってにっこりするわけではありません。相手のほほ笑みを見ると、こっちも思わずほほ笑んでしまう。【2】逆に相手の顔がこわばっていると、自然に私の顔もこわばってしまう。つまり他者の身体というのは、決して科学が扱うような客体的身体ではなく、表情をもった身体であり、私の身体もまた気づかぬうちに表情や身ぶりで、それに応えています。【3】つまり身体的レヴェルでの他者の主観性の把握と、私の応答があるわけです。これがいわゆるノン・ヴァーバル・コミュニケーションですが、もしこうした身体的な場の共有がなけれは、言葉のうえでは話が通じても、心が通わないでしょう。【4】逆に場が共有されていれば、言葉が足りなかったり、多少行き違ってもわかり合うことができます。(中略)
 電話だと誤解が起こりやすいのは、身体的レヴェルでのコミュニケーションが制限されているからです。大事な話があるときは、電話では話せないから会えないか、と言います。【5】会ったところでどうせ言葉で話をするのですから、電話で話せない話などないのです。だからといって盗聴を心配しているとも思えません。電話では身体的レヴェルのコミュニケーションが制限されているために、話のニュアンスが失われ、真意が伝わらないのを恐れるのでしょう。
 【6】人と面と向かって話しているときと電話で話しているときを比べてみると、電話の時の方がはるかに注意深く、論理的に話していることに気づきます。しかし電話の場合でも、声の抑揚とか、感情の込め方とか、いろいろのレヴェルの表現があります。【7】横で聞いていると、声の調子で相手がだいたいわかります。相手が恋人である場合はすぐわかりますね。音程が少し下がるのです。そういうノン・ヴァーバルなコミュニケーションの要素が電話にはあります。
 【8】留守番電話というのがありますが、あれは、話しにくいものですね。相手がいないと声の表情を出しにくい。だから、留守番電話に話すときには大変意識して論理的に話しています。逆に言えば、面と向かっては言えないことも、電話だと言えるということがあります。【9】面と向かうとボディ・ランゲージの巧みな相手に、肩を抱かれたり、ニコニコされたりして、貸金の返済を迫るつもりが、∵また貸すはめになったりする。人をけむにまく、というのもそれですね。一服つけてタイミングを外すことによって、会話を自分のペースにのせてしまう。【0】ところが、電話だとボデイ・ランゲージがほとんどききませんから、面と向かっては言えないようなきついことも言えるし、おとなしい人が大変な剣幕でどなり散らしたりします。
 ほとんどノン・ヴァーバルなコミュニケーションから成り立っているのが、恋人同士の会話です。「七時間も恋人と話していた。」と言うので、「何を話したんだ。」と言うと、本人もよくわからない。結局大したことは何も話していない。一緒に座っていて、「風が気持ちいいね。」とか「星が出たね。」とか言っていますが、そんなことは相手もわかっているのだから言わなくてもいいのです。情報理論的に言えば、情報価値ゼロの会話をしている。しかし恋人同士にとっては、そうではない。この場合は言葉がむしろ刺身のつまであって、ノン・ヴァーバルなコミュニケーションが、心の通いを実現しているのです。
 これは生き身が、単なる対象としての身体ではなく、互いに感応し、問いかけ、応答する、表情的身体だからこそ可能なのです。人々の間で無意識のうちに交わされる身体的対話は、社会のうちに共通の表情を作り上げて行きます。外国人を見ると同じ顔に見えるように、われわれもひとりひとり違った顔をしているように見えながら、外から見れば、共通の表情をしているのでしょう。
 このように表情的であるのが他者の身体ですが、さらに物も実は表情的です。脅迫的な雲行きとか、なごやかな田園風景とかがあります。それに感応してわれわれの身の表情も変ります。茫洋たる海を前にしたときと、峨々たる山を前にしたときでは、身のあり方自体が異なるでしょう。つまり風景とか風土も表情をもっていて、それがわれわれの身の感応の仕方を制約しています。ですから、個人の自己形成や、さらには民族の性格形成にとって、風景や風土を無視することはできません。風景や風土は物理的環境ではなく、それ自体表情的環境としてわれわれの身のあり方と深く入り交っているのです。
 (市川浩『「身」の構造―身体論を超えて』による)