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課題集 ヤマブキ2 の山

★便利になればなるほど(感)/ 池新
 【1】便利になればなるほど、人はもっと便利がほしくなる。しかし、ここは正確に考えてみたい。たとえば、新幹線というものが現れたとき、人々は感激した、「なんと便利なものが現れたことか。」当初、東京―大阪間は三時間十分だったと思う。【2】しかし近年「のぞみ号」は、二時間半で走り、やがては一時間でつながるのかもしれない。
 ところで、しかし、新幹線は東京―大阪間を一時間で走るべきだと、いつ誰が望んだことがあっただろうか。新幹線が東京―大阪間を一時間で走ることは、いったい誰にとって必要なことなのだろうか。
 【3】三時間十分で走っていたとき、ユーザーは、その所要時間をそのようなものとして、それに満足していたはずなのだ。もっと速く走るべきだとは、決して思わなかったはずなのだ。しかし、技術の側の勝手な進歩で、列車は勝手に速く走り出し、ユーザーは、「さらに便利になった。」と単純に喜ぶ。【4】しかし、三時間なら三時間で、それに合わせてやってゆけていた生活が、誰も頼みもしないのに一時間になり、それに合わせたより忙しい生活になること、これは、「便利になった。」というべきことなのだろうか。
 【5】つまり、便利さとは実は、決して必要からの要請ではなく、所与のもののあとからの承認であるということだ。与えられて初めて人は気づくのだ、「これは便利だ。」便利さは、必要に、常に一歩先んじている。【6】人は、ほんとうは、必要から便利さを求めたことなどなかったのだ。これをつづめて、はっきり言うと、「便利なものは必要がない」。
 なければないで全然かまわないもの、それが便利さの定義だ。それが出現するまでは、人はそれなしで十分やってこれていたのである。【7】パソコン然り、携帯電話然り、全自動洗濯機もまた然り。(中略)
 ソクラテスという人は、こんなふうに言った。「皆は食べるために生きているが、僕は生きるために食べている。」
 食べるために生きるとは、生存することそれ自体が目的である。【8】しかし、彼はそうではなかった。たんなる生存には価値はない、「よく生きる」ことにだけ、価値がある。よく生きるために僕は∵生きている、そのために僕は食べている。
 科学という知の一形態は、それ自体としては、知ることへの純粋な欲求である。【9】しかし、それが、右のような哲学的反省を経ることなく、そのまま技術として現実へ適用されるとき、人は過つ。
 たとえば、臓器移植という技術、あれを最初に誰が望んだだろうか。誰があれを必要としただろうか。決して患者ではない。【0】ここで間違えてはならない。患者は、あのような技術がなかったころ、自身の病と生死とを、そのようなものとして受け容れていたはずなのだ。天命を知り、自然に従ったはずなのだ。しかし、所与のものとしての技術の存在を知り、患者はかえって迷うことになる。これは幸福なことなのだろうか。少なくとも私は、そうは思わない。私にとって、生存することそれ自体は、求められるべき価値ではないからだ。「簡単便利な臓器移植」、こんなに人間を馬鹿にした話はない。しかし、事態は確実にその方向へ動いている。
 科学技術は、生存することそれ自体が価値であり少しでも長く生存することがよいことなのだという大前提を少しも疑わないことでこそ、めざましい進歩を遂げることができたのだ。そして、少しでも長く生存する限り、その生存はより快適なほうがいい、これが例の「クオリティ・オブ・ライフ」という妙な文句の真意である。この延長線上に、やがて「コンビニエンス」という発想が出てくる。便利さが価値になるほど、人間の価値は薄まる。
 便利さを享受する愚昧な人々、ただ生存しているだけの空疎な人々、夢の近未来社会とは、要するにこれである。わざと悲観的に言っているのではない。何のために何をしているのかを内省することなく、ひたすら外界を追求してきたことの当然の帰結である。
 さて「便利」ということについて考えてきたが、対する「不便」というのは、便利さを知らなければ出てこない言葉である。したがって、不便という言葉を知った人はすでに不幸だろう。古来より人は、この状態を警戒して、「足るを知る」、すなわち、あるがままを認めることの幸福を説いたのではなかったか。

 (池田晶子「『コンビニエントな人生』を哲学する」による)