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課題集 ヤマブキ2 の山

★旅が面白いのは(感)/ 池新
 【1】旅が面白いのは、行った先で思いがけない物事に出会って、出かけるまえの当初の目論見もくろみとはまるでちがった関心をもつようになったり、かなりちがったところに足をのばして深入りするようになったりすることがあるからである。【2】だから、あらかじめあまり細かく計画を立てて予定以外に身動きできないようにしたり、よそ見をしないでただ予定どおりに歩いたりしたのでは、旅としての魅力は半減する。なにも、いたずらにきょろきょろよそ見をするのがいいというのではない。【3】そうではなくて、歩いていておのずと見えてくるものに対して目をふさがず、見えてきたものにつよく心をひかれれば、それに深入りすることもおそれるべきではない、というのである。
 おのずと見えてくるものなどというと、積極的、意識的に見ることにくらべて、受動的、消極的な態度だと思う人もいるだろう。【4】しかし、実際には、意識的にものを見ようとすると、かえって、見ようと思ったその角度だけから一義的にしかものを見ることができない。もっといえば、そのとき、見られるものは冷ややかに対象化されて、一義的でしかないものになる。【5】それに対して、おのずと見えてくるとは、私たちが心を開いて自然や外界(人間やできごとをも含めて)に接するとき、つまり視覚の独走にまかせずに五感のすべてを生かして共通感覚的に接するときに、ものが豊かな多義性をもってあらわれることなのである。
 【6】そしてこの場合、実は、私たちの身体=精神は一方的に受動的なのでは決してなく、想像力――これは昔から共通感覚に相応するものと見なされている――の働きによる自然や外界への問いかけが、すでに行われている。【7】そのような私たちの身体=精神と自然や外界との交感・対話のうちに、ものが豊かな多義性をもって、おのずと見えてくるのである。このように意識的に無理にものを見ようとせず、おのずと見えてくるようなかたちで接することなくしてはものが豊かな多義性をもって姿をあらわさないということは、なにも現実の旅についてだけいえるのではない。【8】それは「知の旅」あるいは「知の探索」においても、まったく同様にいえるのである。
 「知の探索」においてせっかく多くのものを見、たくさんの書物を読みながら、硬直した見方や概念的な見方にとらわれているために、対象のもつ豊かな問題性を貧しく平板なものにしてしまう人たちが少なくない。【9】硬直した見方、概念的な見方によって対象に接するとき、対象は豊かな多義性をもあらわさなければ、問題と∵して動き出したり躍動したりすることもない。そこでは対象=問題は、ただ単にいわばはく製として標本化され分類されているにすぎないのだ。【0】学問の名において、また科学の名においてそうした在り様がしばしば一般化した。そのために、「知の探索」が人々に、どんなに無味乾燥なものと思われるようになったことか。
 そのことは、知の探索において、ただ多くのものを見、多くの書物を読めばいいのではなく、どのようにものを見、どのように書物を読むかという、対象についての読解(知覚を含めた)の在り様にもかかわり、したがって次にここに、その在り様そのものが大きく問われることになる。硬直した見方、一定の価値判断にとらわれた見方を排して事象そのものへと迫ろうとする「現象学」をはじめ、あらゆるものやことを記号としてそれが表す意味作用を読みとろうとする「記号学」、また、すべての言説をその概念的意味だけてはなく能記(記号表現)を重視して、多義的なものとしてとらえようとする「テキスト読解の理論」などが、近年いよいよ重視されるようになったのは、そのためである。
 ところが、それらの方法や理論にしても、十分に使いこなされて対象=問題のもつ豊かな多義性への解明に役立てられず、方法のための方法、理論のための理論にとどまることがあまりにも多い。なぜだろうか。思うにそれは、誤った視覚の立場、概念の立場から自由になっていないため、脱皮していないためであろう。おのずとものが見えてくるような対象への接し方が身につけられていないためであろう。おのずとものが見えてくるという在り方は、日頃の訓練によって身につけられるけれど、それがなにかの偶然あるいはチャンスの折に力を発揮するのである。

 (中村雄二郎『知の旅へのいざない』による。表記等を改めたところがある)