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課題集 ヤマブキ2 の山

★「ことば」ということに関連して(感)/ 池新
 【1】「ことば」ということに関連して、しゃべるということを考えてみたいと思います。ぼくは、自分のしゃべりかたにはひとつの特徴がある、と自分で思います。ぼくの両親は九州の出身で、その両親に育てられた人間として、当然のことながら九州の方言のイントネーションが体にしみついてしまっているわけです。
 【2】最初、九州から東京に出てきて、東京の人たちのかろやかなおしゃべりをきいた耳には、自分のしゃべりかたがじつに不細工で野暮ったく、不思議で野蛮なものに感じられて、一生懸命、勉強して自分のアクセントをなおしたり、あるいは東京ふうのイントネーションをまねして、少しでも洗練させよう、などと考えた時代もありました。
 【3】しかし、あるときから、面倒くさいことばでいいますと、アイデンティティといいますか、自分がどこに属しているか、自分の足がどこの大地を踏まえて立っているか、自分がどこの人間であるか、などということを自分でしっかりと確認するのは非常に大事なことで、【4】そのためには自分のしゃべりかたとか、ことばとか、そういうものが不可欠の要素である、と考えるようになってきたのです。
 生前の寺山修二も、ああ彼は津軽の人なんだ、としみじみと思わせるようなしゃべりかたをする人でしたが、【5】ぼくも九州にルーツを持つ人間であるということが、じつは自分にとってとても大事なことなのではないか、と考えるようになりました。
 「方言は国の手形」なんていう表現がむかしはあったそうです。【6】むしろ、私たちが付け焼き刃の共通語で、都会ふうのことばで気のきいたことをぺらぺらとしゃべるよりも、 何千年にもわたってそこで営まれてきた人間の生活をずっとしょいこんできている自分の「ことば」を大切にしなければいけないのではないか。【7】自分の訛りのつよいしゃべりかたは、恥ずかしいことは恥ずかしいのですが、でもやっぱり、その人間の個性として、めたり曲げたりせずむしろ大事に残しておいたほうがいいのではないか、と考えるようになりました。
 【8】ぼくの両親は、父も母も両方とも師範学校を出て、学校の教師をしていた人間なのですが、敗戦後、外地から引き(げてきたこともあって、遺産らしきものはなにも残してもらえませんでした。べつに財産を残してもらいたいなどという気持ちはさらさらないので∵すが、【9】でも、父母の思い出になる形見の品のひとつぐらいは、と、ときおり思うこともあります。(中略)
 ただ唯一、自分がしゃべっているときに、ふっと、あ、そういえば、たしかに母はこんなふうな物の言いかたをしていたな、父親はこんなふうにしゃべっていたな、と感じることがあります。【0】
 たとえば、いまの日本語ではあまり区別をしませんが、九州や西日本には「お」という発音と「を」という発音をわりとはっきり区別する習慣がありました。あるいは「かい」と「くゎい」を区別して言ったりする。国会(こっくわい)を開会(かいくわい)する、なんて言います。学校を休む、の「を」と、お父さん、の「お」とをはっきり区別する。ぼくのなかにはいまでもそういうことばづかいが残っていて、ときどき九州とか山口県などへ行ってそういうしゃべりかたをするご老人にあったりすると、なんとはなしにほっとなつかしい感じがしたりします。
 物事をできるだけシンプルにしていくことは、近代化を進めていく上で大事なことです。しかし、日本語の音というものは、かつてはもっと複雑で多様であった。そのことを考えると、あまり合理主義ということだけを考えて日本語をやせさせていくのはどうかな、と思ったりすることもあります。
 いずれにしても、ぼくにとっては「ことば」というものが父や母や、あるいはもっともっと前の自分の血のつながった人たちから、ぼくに託された大切な宝物という気がしてなりません。還暦をすぎると人間は子供に還るといいますが、むかしふうのしゃべりかたが少しずつ自分のなかで色濃くつよくよみがえってくるのを最近は感じます。物の好みもそうですし、食べ物もそうです。
 そういうことをひっくるめて、自分が個人として、ひとりで生きているということだけではなくて、自分のなかにたくさんの人びとの「命」が重なって存在している。百年とか千年とか、あるいは三千年とか、そういう時代から、この日本列島の一画に住み着いて、∵そこで生活してきた人びとの、目に見えない記憶、あるいは息づかい、そういうものが、ぼく自身の体のなかに伝わっている。こういうことを感じられるのは自分流の、地方性のあることばを自分がまだ所有しているからなのかもしれない、と思います。

(五木寛之『大河の一滴』による。 表記等を改めたところがある)