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課題集 ヤマブキ2 の山

★ある作家の話によると(感)/ 池新
 【1】ある作家の話によると、いまの読者は、すでに長編小説を読むだけの時間の集中力を失っているそうだ。いまの読者が、いちばん気軽に読むのは短編、それも原稿用紙で一五枚ないしニ〇枚の短編小説なのであるらしい。【2】ながい時間の持続に、われわれはえきれないのである。
 その原因は、ひょっとするとテレビの影響なのではあるまいか、とその作家はいった。われわれがよく知っているように、ラジオ、テレビなど、こんにちの放送文化というのは、一五分を単位にしてうごいている。【3】テレビを見ているわれわれのからだのなかには、一五分を単位にした一種の体内時計のごときものがいつのまにか内蔵されてしまっていて、一五分たつと、なにかほかのことをしないではいられなくなっているのだそうである。【4】一五枚ないし二〇枚の短編小説を読むのに必要な時間もちょうど一五分ぐらいだ。短編小説がよく読まれるのは、テレビで一五分きざみの体内時計が仕込まれているからだ、とかれはいうのである。
 それが真実であるのかどうかは、わからない。【5】しかし、おしなべて、現代のわれわれが落ちつきを失っている、というのは、体験的にいって、事実であるように思われる。ひとつのことに専念して、何時間も、何日も、精神を持続させることが、われわれにはできなくなった。【6】分断されていることこそが、われわれにとってあたりまえのことなので、分断されていない時間は、かえって不安ですらあるのだ。われわれは、一五分きざみで、人と会ったり、テレビを見たり、新聞を読んだり、という生活のリズムにすっかりはまりこんでしまっているのである。【7】意味のある情報にとりかこまれた現代に生きるための、それはひとつの知恵なのかもしれない。
 そのうえ、われわれは、あたらしい情報、すなわちニュースというものへの異常なほどの関心を、ほとんど第二の天性にしてしまっている。【8】あたらしいことが発生しないと、さっぱりおもしろくないのである。むかしから、「便りのないのはよい便り」などという。べつだん「かわりがないのが、うれしいことなので、「かわったこと」があるのは、不安のタネでありこそすれ、けっして喜びではなかった。【9】しかし、われわれは、その逆である。われわれは、毎日が「かわったこと」の連続だと信じこんでいて、「かわったこと」がなければ、平凡で、日常的で、さっぱりおもしろくない、とかんがえる。鉄道が、時間どおりに安全に運行されているのは結構なことなのだが、それでは、われわれを満足させることはできない。【0】われわれは、大きな鉄道事故が起きて、たくさんの死傷者が∵出たりしたときに、はじめて満足するのである。
 一七世紀のおわりに、はじめてアメリカで発行された新聞は月刊であり、特別なニュースがあるときには号外を出す、というのんびりした形式のものであった。ひと月の時間をとっておけば、かわったできごともいくつか起きるだろうというのがその基本的なかんがえかたであって、それは、常識的にみて、たいへんに、健全な態度というべきであった。号外が出ない、というのは大きな異変がない、ということなので、号外などはないにこしたことはない――一七世紀の新聞の読者はそうかんがえた。まさしく「便りのないのはよい便り」だったのである。
 しかし、新聞が日刊になったときから、事態はかわった。ニュースは、毎日、発生しなければならないのである。われわれは、新聞をひらいて、第一面に初号活字をつかった大きな見出しのついている日にはいささか興奮するが、大見出しのない日には、なんとなく失望する。だから、新聞のつくり手たちは、発生したできごとのなかに大ニュースがないときには、ニュースをつくる習慣をいつのまにか発明した。ベテラン記者はいう――「成功した記者とは、たとえ地震や暗殺や内乱がなくてもニュースを見つけ出すことができる人間のことである。もしもニュースを見つけ出すことができなければ、著名人をインタビューするとか、月並みな事件から驚くべき人間的興味を引き出すとか、「ニュースの背後にあるニュース」を書くとかの方法によって、ニュースを作り出さなければならない。」
 その努力によって、新聞はニュースにみちている。だが、新聞がニュースにみちているということは、かならずしも、世界ができことにみちているということではない。現代のマス・メディアの技術が、世界をニュースにみちたものとしてわれわれのまえに提供してくれるのである。

(加藤秀俊『情報行動』による。本文を改めたところがある)