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課題集 プラタナス3 の山

○自由な題名 / 池新
◎根 / 池新

★いまでは歩きながら考えるということが / 池新
 いまでは歩きながら考えるということがなくなったと嘆いたのはアドルノだが、散歩するということは、思考にとって思わぬ刺激となる。机の前ではものを考えられないという人も多いだろう。精神の働きは、身体の揺れから大きな影響をうけるのだ。歩いている周囲の風景が展開し、新しいものが見えてくるたびに、思いは誘われる。ここでは、思索することにおいて、身体の移動という単純な行為がどれほど重要な意味をもつことがあるかを考えてみよう。散歩とはときには思考の対象そのものになることもあるのだ。ストア派はアゴラのストア(列柱)の回りを歩きながら思考を深めたのだし、エピクテトスは散歩することを自己の鍛錬のための大切な手段だと考えていた。散歩しながら町でさまざまな人と行き違う。美女を見て、ああ、あんな女性の愛人になれたらというような欲望に動かされなかったか、富んだ人を見てうらやましいと感じなかったか、権力者を見て、何か頼みたいと思わなかったか。自分の魂の動きを吟味するために散歩が利用されたのだ。
 近代にいたっても散歩を思考の習慣とした人物にルソーがいる。歩くことはルソーにとっては、みずからとの一体感を味わうための重要な方法だった。『孤独な散歩者の夢想』ではルソーは、歩きながら浮かんでくる夢想を記録することが自分の心の状態を記述するための最高の方法であると、次のように語っている。「この孤独と瞑想のときが、一日のうちで、気が散ることもなく、妨げられることもなく、私が十全に私であり、私自身のものである、そして自分が自然の望んだとおりのものであるとほんとうに言うことのできる、唯一のときなのである」。
 またニーチェは歩きながら考えた。歩くたびに新しい思考が生まれる。その思考の種子を鉛筆でなぐり書きする。そして帰宅すると、その思考の種子に水をやり、思考を展開させる。散歩をしていると唐突に驚くべき思想が訪れるのだ。永遠回帰の思想もこうしてニーチェを襲った。「あの日わたしはシルヴァプラーナの湖に沿って森をいくつか通り抜けて散歩していた。スールレイの近くにピラ∵ミッド型にそびえている巨大な岩があり、そこで立ちどまった。その時この思想がわたしに、到来した」。ニーチェは本を読むことを軽蔑していた。歩きながら生まれた思考の芽生えを育てるためにこそ、残された時間を費やすべきだと考えたのだ。
 ルソーもニーチェも歩きながら、ほとんど外の光景を眺めていない。自分の心に浮かぶ思念が重要なのであり、歩行という営みは、その思念を生みだすための身体のリズムなのだ。だとすれば、歩行するのは街路や高原である必要はない。ときには部屋の中だけでも歩けるだろう。カフカは、二種類の旅を対比させている。外延的で組織された旅と、内包的で、「破片、難破、断片による旅」である。
 最初の旅では旅人は外の世界を歩きまわる。旅には手配や組織が必要であり、外の光景が必要である。しかし第二の旅で重要なのはその内的な強度である。だから自分の部屋の中でも実行することができる。ドゥルーズはカフカがこの強度の旅について、「自分だけの遊歩道がつくれない場所はどこにもない」と語っていたことを指摘する。部屋の中を歩きながら、あるいは部屋の中で横たわったままで、カフカは内的な旅を強行する。夢の中ですらカフカはつねに歩きまわっているのである。

 (中山元『思考のトポス 現代哲学のアポリアから』による)