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課題集 プラタナス3 の山

○自由な題名 / 池新
◎太陽 / 池新

★科学が感覚世界から離れてしまうと / 池新
 科学が感覚世界から離れてしまうと、解毒剤として科学のはたらきが消える。だから科学がイデオロギーになったり、信仰になったりするのである。個人的なことだが、若いときの私は、いちおう科学者の業界で生きようとしていた。ただどうしてもなじめなかったのは、科学のなかでの「同じ」という部分である。科学は感覚の世界を基礎とする。そこから「同じ」世界を見直すだけのことである。そう思えば、話は簡単だった。しかし客観的とか、独創的とか、モノに即すとか、理論的とか、とにかく当たらずといえども遠からずという表現ばかり周囲から与えられたから、実際には「科学の世界でなにをしたらいいか」、よく理解できていなかった。だから私は「科学者」になりそびれたのである。
 解剖をやったのは、その意味では正解だった。若いころ、私の脳には抽象的な傾向があった。つまり放っておけば「思想がある」、つまり「同じ」世界しか存在しなくなったに違いない。ところが死体というのは、抽象とはもっとも遠い世界である。死体という言葉すら、私はじつは使いたくない。なぜならそれは既成の言葉であって、実際には死体とは死体という言葉で意味されるようなものではないからである。それは一人一人違っていて、「感覚の世界」と私がいう、それそのものなのである。
 虫の世界も同じである。世間で暮らせば、虫は虫である。ところがその多様さは、ほとんど気も狂わんばかりである。日本のヒゲボソゾウムシは、ついこの間まで、たかだか十種ほどだったが、今年は新種に名前がつけられて、二十種ほどに増えるはずである。それで終わりかというなら、まだ種数が増えると私は確信している。それを生物多様性というのだが、この言葉が世間によく通じないのは、すでに世間では「同じ」世界が優越しているからである。お金がそうで、経済がそうである。商品にはじつは「同じもの」しかない。そうでないと、値段がつけられない。まったく独特のものには、値段がつけられないからである。
 世間では、
「虫は要するに虫だろ」
という。つまりすべては「同じ」虫なのである。そこには生物多様性なんかない。ここには言葉が基底にあって、それ以下に潜ろうと∵しないという、いまの世間の態度がみごとに示されている。同様にして、
「死体は死体だろ」
で世間の話は終わる。しかし、言葉より以下に「降りなければ」、言葉を創ることはできない。だから現代人は「既成の言葉をただ運転している」と私はいう。それをコミュニケーションなどと称するのである。それで人生が済むと思っていられるのは、自分以外のだれかが感覚世界と格闘してくれているおかげである。そんなこととは、夢にも思っていないであろうが。

 (養老孟司『無思想の発見』による)