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課題集 プラタナス3 の山

○自由な題名 / 池新
◎窓 / 池新

★子規が、西洋画を通じて / 池新
 子規が、西洋画を通じて理解した「写生」とはどのようなものだったのだろうか。かれが語るところによれば、日本の絵画界でも百年ほど前から写生ということをやかましくいうようになってきた。これはおそらく、司馬江漢、あるいは秋田蘭画らんがの活動を指しているのだと思われる。だが西洋画であろうと、日本画であろうと自然の写生を離れて絵画が成り立つはずがない。ところが日本ではある時期から奇妙な発達をして、どんどん実物からはなれてしまった。東山時代の水墨画はその最たるもので、一見して鯰や鯉やら区別もつかない、符牒のような絵になってしまった。その反省から出てきた一種の写生画が光琳の没骨画もっこつがだが、これは草木のほかは描けない不完全なものでしかなかった。その後を受けたのが、応挙や呉春ごしゅん一派の輪郭的写生であったと、このように子規は説明するのである。

 全体は無論輪郭づくめであるから、色々無理が出来て、ついに理屈的写生に落ちてしまふた。例へば鯉を画くと三十六枚の鱗がチヤンと明瞭に一枚一枚見えて居る。東山時代の鯰的鯉も乱暴だが、鱗が数へられるのも変なものである。(中略)
 そこで油絵が這入はいって来ていよいよ写生が完全に出来るやうになった。此写生は無論感情的写生であって、人が物を見て感ずる度合に従ふて画くから、鯉を画いても鱗を三十六枚画きはせぬ。さりとて東山時代のやうに大きな点を打って鱗の符牒にして置くのでは無い。それで実物見たやうに出来る。これは没骨画もっこつがなるがためであって、輪郭の代りに絵の具が自然の輪郭をつくるのである。即ち絵の具が唯一の道具である。絵の具を擯斥した日本人には思ひもよらなかったであらう。此油絵は一から十まで写生するので、殆ど写生で無い者は無い。此頃では日本画でも写生写生といふ位になって写生といふ事は大分人に知られて来たが、まだ油画の写生を誤解して居る人が多い。
 (「写生、写実」『ホトトギス』第二巻第三号)

 ここで注目しなければならないのは、「理屈的写生」と対で用いられている「感情的写生」とは何かということである。それは「人が物を見て感ずる度合」に従って画くことだと説明されている。子規が最初に「写生」に夢中になったのは、目の前の自然をひねくり回すことなく、あるがままに客観的に描写するだけで、従来の月並風とは異なった魅力ある句が次々と生み出されていったことにある。ところがやがて、自分の眼で見たように表わすこととは、実は客観的な自然を主観化して捉えることなのだということに気づいたのである。(略)
 芸術とは、ひとことで言えば「発見」の世界である。その表現には、当然のことながら芸術家の美感に基づく取捨選択がなされている。子規も述べているように、現実の花より、時として画かれた花のほうが美しいのはそのせいである。はなから風雅な、あるいは風流な世界があると決めてかかるのが月並宗匠風というものである。名所旧跡、花鳥風月を詠まなければ句にならないというのは甚だしい観念論である。芸術の素材、つまりモチーフは私たちの周辺にいくらでも転がっているのだ。それを発見するのが、芸術家の素質であり、才能というものだろう。子規は次のように喝破している。「風流はいづくにもある可し」(「俳諧大要」)と。

 (神林恒道『近代日本「美学」の誕生』より)