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課題集 プラタナス の山

★誰かがいつか(感)/ 池新
 【1】誰かがいつか、こんなことを言っていた。神経が苛立って眠れない時があるが、これは神経の疲労が肉体の疲労とのバランスを欠いて、独自に進行してしまった結果である。【2】従ってこうした場合は、縄跳びを数回行って、肉体の疲労を神経のそれと同程度になるまで高めればいい。それぞれの疲労のバランスがとれれば、人は眠れるのである。
 【3】いささか論理が明確に過ぎて、その分だけ何となく危うい気がしないでもないが、しかしこの論理の組み立て方には魅力がある。何よりも、神経の疲労それ自体を静めようとするのではなく、肉体の疲労をそれに見合うべく高めようとする点が独特であり、そこに行動的であり、しかも積極的な姿勢がうかがわれるのである。【4】そして事実私は、同様の症状に陥るたびにこの考え方を応用して実行し、もし私の錯覚でなければ、言われている通りの効果をあげることが出来た。
 【5】かつて私は、ホンダの五〇CCのカブ・原動機付自転車を愛用していたが、これに長時間乗った場合、必ずこうした症状に陥った。 【6】原動機付自転車というのは、人間の筋力による走行速度を、ガソリン・エンジンに置き換えて促進するための最も原始的な装置であり、それとこれとの置き換えを実感するためには、最も効果的な道具なのだが、それだけに、こうした症状に陥る事情も、論理的に説明しやすいということがある。
 【7】もちろんこれもまた、論理が明確に過ぎて、自分自身ほとんどはにかまざるを得ないほどであるが、つまりこの場合、私の「肉体」はただ、震動する小さなガソリン・エンジンにしがみついているだけだが、「神経」の方は、その同じ距離と時間を省略することなく体験しつくすのであり、従ってそのそれぞれの疲労のバランスは、大きく喰い違ってくるはずだ、というわけである。【8】「神経」の疲労のみが独自に進行してしまって、私は苛立ち、眠れなくなる。
 そこで私は、長時間原動機付自転車に乗った日は必ず、家に入る∵前にその場で体操をしたり、家の周囲を暫く走ったりして、「肉体」を酷使し、疲労のバランスをとるよう努めた。【9】そうすることによって私は、その夜の「安眠」を、勝ちとってきたのである。【0】(中略)
 私は、私自身が原動機付自転車に乗っていた当時の体験に即して、ここまで考えてみた結果、冒頭に掲げた考え方を、ほぼ「あり得ること」として、認めることにした。「神経」と「肉体」という言い方が、厳密に考えようとするとややあいまいであるが、彼がその言葉で、我々の内なる何を言い当てようとしつつあるかは、容易に想像がつくのである。つまりここでは、そのそれぞれのものが、乖離して世界を体験し、従って乖離したままそれぞれ別レベルの疲労を課せられ、そのバランスが崩れつつある点に、問題があると言っているのだ。(中略)
 私はるジャーナリストが、ケネディ暗殺事件を報道するテレビ画像を見て、「ここには何も映し出されていない」と言ったのを覚えている。彼は、彼が実際にその場に居合せたことのある暗殺事件の現場を想起しながら、「そこには確かに、人々を恐怖させ、吐き気を催させる何ものかがあったのだが、ここには何もない」ということを言っているのだ。そしてこのことは、私がる距離を、歩いたり走ったりするのでなく原動機付自転車で通り抜けてしまったことにより抱かざるを得なかったことと、同様のものであったような気がする。
 この手応えのない世界への不安が我々の内に潜在し、その焦燥感が、勢い手応えのあるものに向って、やみくもに発散されようとするのだ。

(別役実「イロニーとしての身体性」による)