昨日0 今日361 合計361
課題集 プラタナス の山

★人間以外の動物は(感)/ 池新
 【1】人間以外の動物は普通「本能」の赴くままに行動するとき、そこに迷いや不安はない。彼らにとっては、世界は予め秩序を与えられているのであって、自らがそれを創り出す必要がないからである。つまり、選択の余地がないのである。【2】それに対して人間は、そのような「本能」の導きを失い、従って、混沌と化した世界に対して、素手で働きかけることができず、文化という装置を創り出すことによって、再び秩序をとり戻してきたのである。【3】人間がしばしば、文化を持った生物と呼ばれる理由はそこにある。
 何故人間のみが、そのような特異な生物への「進化」の道を歩んだのかということは、それ自体非常に興味のある問題であるが、ここでは本題に外れるので触れない。【4】その代わりに、文化を持った生物となってしまった人間が、環境の変化に対して、他の種のように何世代にもわたって徐々に自らを変えて、その変化に適応するということをせず、自らが創り出した文化という装置を操作することによって適応してきたということが、どのような意味を持つようになったかということを考えてゆきたい。
 【5】今述べたように、あるがままの混沌の世界に対して、文化という装置によって秩序を回復する試みが行なわれ、それによって、人間は世界を解釈することができるようになるのであるが、その解釈が有効であるためには、集団の成員によるその承認を必要とする。【6】つまり、文化が文化として機能するためには、社会制度化されなければならないのである。ところが、このような社会制度化された文化が、一旦成立すると、今度はその文化そのものが、人間にとって、いわば第二の自然として、人間の行動を規制してくることになる。【7】したがって、「文化」はもともと「自然」と対立する概念ではあるが、人間は文化の枠内でしか行動しえないものであってみれば、ある意味では文化=自然という関係が成立してくるとさえ言えるのである。
 (中略)
 【8】人間は客観的世界にのみに生きているのでもないし、通常理解されているような社会的活動の世界にのみ生きているのでもなく、その社会の表現手段となっている特定の言語に強い影響を受けているのである。【9】本来言語を使わないで現実に適応できると考えたり、言語をコミュニケーションや、内省の特定の問題を解くため∵の偶然の手段であると考えるのは全くの幻想にすぎない。【0】事実は、「現実世界」というのは、かなりの程度まで、その言語使用者の集団の言語習慣の上に無意識に築かれているのである。どの二つの言語をとってみても、同じ社会的現実を表わしていると考えられる程似た言語はないのである。異なる社会が生きている世界は別の世界であり、単に異なるレッテルが付けられた同一の世界ではないのである。
 すなわち、われわれは全人類が例外なく持っている言語という文化装置(記号体系)を通してしか現実を構成することができないのであり、したがって、それぞれの言語という記号体系が異なれば、見えてくる世界も違ったものになってくるのである。このことは、あるものをそれとして認識できるのは、普通、それに名称が与えられている場合であることを考えても、容易に想像されるだろう。それまでは何気なく見過ごしてきた路傍の花が、その名称を知ることによって、急にいきいきとした存在感を持って知覚されてくることは誰でも経験したに違いない。つまり、名称という記号表現を与えられて初めて、その花はわれわれに意味を待った存在として現われてくるのである。繰り返して言うと、文化という装置は、もともと自然の混沌に秩序を与えるために、人間が集団としてある意味では恣意的に創り出した記号体系であるが、一旦できあがるとそれは自立性を獲得し、逆にその創造者を呪縛するようになるのである。このようにして、人間はもはや文化という装置なしでは生きていけない存在になってしまったのである。
 文化をこのように、人間が集団として恣意的に創り出した記号体系として捉えるならば、各文化間の相違が現われてくるのは当然であるが、それのみでなく、その分節がある意味では恣意的でありうるが故に、文化の行なう秩序化(=分類)からはみ出してくる部分が出てくるのは想像に難くない。そのはみ出した部分をそのままにしておくことは、秩序の破壊につながってくるため、文化にとっては危険な存在になる。そのため、文化は、そのはみ出した部分を、消極的には「見えないもの」(インビジブル)として、積極的には禁忌(タブー)として抑圧する必要があるのである。
(池上嘉彦・山中桂一須教光「文化記号論」より)