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課題集 プラタナス の山

★大人になって(感)/ 池新
 【1】大人になって毎日同じようなことを繰り返していると、あまり「ふしぎ」なことはなくなってくる。何もかもわかったような気になると、今度は面白くなくなってきて、「ふしぎ」なことを提供してくれるテレビ番組や催しものなどを見る。【2】これらは必ず「ふしぎ」なことが最後には心に収まるようになっているので、少しの間心をときめかして、後は安心、ということになる。
 【3】子どもは「ふしぎ」と思う事に対して、大人から教えてもらうことによって知識を吸収していくが、時に自分なりに「ふしぎ」な事に対して自分なりの説明を考えつくときもある。【4】子どもが「なぜ」ときいたとき、すぐに答えず、「なぜでしょうね」と問い返すと、面白い答えが子どもの側から出てくることもある。
 「お母さん、せみは、なぜミンミン鳴いてばかりいるの」と子どもがたずねる。【5】「なぜ、鳴いているんでしょうね」と母親が応じると、「お母さん、お母さんと言って、せみが呼んでいるんだね」と子どもが答える。そして、自分の答えに満足して再度質問しない。これは、子どもが自分で「説明」を考えたのだろうか。
 【6】それは単なる外的な「説明」だけではなく、何かあると「お母さん」と呼びたくなる自分の気持ちもそこに込められているのではなかろうか。だからこそ、子どもは自分の答えに「納得」したのではなかろうか。【7】そのときに、母親が「なぜって、せみはミンミンと鳴くものですよ」とか、「せみは鳴くのが仕事なのよ」とか、答えたとしても「納得」はしなかったであろう。たとい、せみの鳴き声はどうして出てくるかについて「正しい」知識を供給しても、同じことだったろう。【8】そのときに、その子にとって納得のいく答えというものがある。
 「そのときに、その人にとって納得がいく」答えは、「物語」になるのではなかろうか。せみの声を聞いて、「せみがお母さん、お母さんと呼んでいる」というのは、すでに物語になっている。【9】外的な現象と、子どもの心のなかに生じることがひとつになって、物語に結晶している。
 人類は言語を用いはじめた最初から物語ることをはじめたのではないだろうか。短い言語でも、それは人間の体験した「ふしぎ」、「おどろき」などを心に収めるために用いられたであろう。
 【0】古代ギリシャの時代に、人々は太陽が熱をもった球体であることを知っていた。しかしそれと同時に、彼らは太陽を四頭立ての金の馬車に乗った英雄として、それを語った。これはどうしてだろう。夜の闇を破って出現して来る太陽の姿を見たときの彼らの体∵験、その存在のなかに生じる感動、それらを表現するのには、太陽を黄金の馬車に乗った英雄として物語ることが、はるかにふさわしかったからである。
 かくて、各部族や民族は、「いかにしてわれわれはここに存在するのか」という、人間にとって根本的な「ふしぎ」に答えるものとしての物語、すなわち神話をもつようになった。それは単に「ふしぎ」を説明するなどというものではなく、存在全体にかかわるものとして、その存在を深め、豊かにする役割をもつものであった。
ところが、そのような「神話」を現象の「説明」として見るとどうなるだろう。確かに英雄が夜毎に怪物と戦い、それに勝利して朝になると立ち現われてくるという話は、ある程度、太陽についての「ふしぎ」を納得させてくれるが、そのすべての現象について説明するのには都合が悪いことも明らかになってきた。たとえば、せみの鳴くのを「お母さんと呼んでいる」として、しばらく納得できるにしても、しだいにそれでは都合の悪いことがでてくる。
 そこで、現象を「説明」するための話は、なるべく人間の内的世界をかかわらせない方が、正確になることに人間がだんだん気がつきはじめた。そして、その傾向の最たるものとして、「自然科学」が生まれてくる。「ふしぎ」な現象を説明するとき、その現象を人間から切り離したものとして観察し、そこに話をつくる。
 このような「自然科学」の方法は、ニュートンが試みたように、「ふしぎ」の説明として普遍的な話(つまり、物理学の法則)を生み出してくる。これがどれほど強力であるかは、周知のとおり現代のテクノロジーの発展がそれを示している。これがあまりに素晴らしいので、近代人は「神話」を嫌い、自然科学によって世界を見ることに心をつくしすぎた。これは外的現象の理解に大いに役立つ。しかし、神話をまったく放棄すると、自分の心のなかのことや、自分と世界とのかかわりが無視されたことになる。

 (河合隼雄「物語とふしぎ」による)