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課題集 ピラカンサ3 の山

○危機意識 / 池新


○氏の『沈黙』は、キリシタン禁制時代の日本に / 池新
 氏の『沈黙』は、キリシタン禁制時代の日本に、ポルトガルから二人の若い司祭が潜入を企てるところから始まる。島原の乱が鎮圧されたころである。かれらは苦心惨憺のすえ、取り締りの目をかいくぐって上陸し、日本人信徒との連絡をつける。が、まもなく捕えられ、苛酷な拷問のすえ棄教に追いこまれていく。
 その主人公の一人がロドリゴで、踏絵を踏むよう役人に説得される。外国の司祭が転べば、信徒たちも転ぶからだ。転ぶべきか、それを拒否すべきか、思い惑い苦しみつづけるかれの心の奥に、「神よ、あなたはなぜ黙っているのです」という黒い渦のような言葉が噴きあげてくる。救いの手をさしのべてくれない神への呪いの叫びだ。
 そのとき、二〇年前にすでに転んでいた先輩司祭のフェレイラがかれの前にあらわれて、いう。――お前の目の前にいるのは布教に敗北した老宣教師の姿だ。知ったことはただ、この国にはお前や私たちの宗教は根を下ろさぬということだけだ。この国は沼地だ。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐り始める……。
 それをきいて怒りの声をあげるロドリゴに、今は沢野忠庵という日本名をもつフェレイラは淡々と話をつづける。
 「この国の者たちがあの頃信じたものは我々の神ではない。彼等の神々だった。それを私たちは長い長い間知らず、日本人が基督教徒になったと思いこんでいた。……聖ザビエル師が教えられたデウスという言葉も日本人たちは勝手に大日とよぶ信仰に変えていたのだ。……基督教の神は日本人の心情のなかで、いつか神としての実体を失っていった。……日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない。……日本人は人間を美化したり拡張したものを神とよぶ。人間と同じ存在をもつものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない。」∵
 このフェレイラの言葉は作者の遠藤さんの気持でもあったのだろう。
 やがて、そのロドリゴの前に踏絵が置かれるときがくる。細い腕をひろげ、茨の冠をかぶったキリストの醜い顔がそこにあった。
 さあ、勇気をだして。踏めば、あの信者たちも助かる、とフェレイラがいう。ロドリゴは足を上げた。するとそのとき、あの人がかれに向かっていった。
 「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」
 キリストはついに沈黙を破ったのである。痛みと苦しみを分かち合うキリストが蘇り、踏むがいいという。そのキリストの背後に、あの厳格な怒れる神の姿はもはやない。慈愛の眼差しを注ぐ母のような許しの神の影が宿っている。
 神の愛というより、むしろ仏の慈悲の輝きが立ち昇ってくるような錯覚さえおぼえる。ロドリゴは、人間とは隔絶しているはずの神のイメージの上に、母親のような人間の面影を追い求めているようにさえみえるのである。このロドリゴの変貌はまた、沼地のような日本の宗教風土に生まれ育った作者の、その深い心の底を映しだす鏡でもあるのではないだろうか。

(山折哲雄『近代日本人の美意識』による。文章を一部改変した。)

○■ / 池新