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課題集 ピラカンサ3 の山

○自由な題名 / 池新


○フランスの神話学者デュメジルは / 池新
 フランスの神話学者デュメジルは、「神話をなくした民族は命をなくす」とまで言っている。つまり、神話はその民族を支える基盤なのである。しかし、現代人の視点から見て、神話のような荒唐無稽なことがどうして、といぶかしく思う人もあるかも知れない。太陽が男性か女性かなどと馬鹿げたことを考える必要はない。太陽は灼熱した球体であることは、誰もが知っている事実ではないか、とその人は言うだろう。
 古代のギリシャにおいても、太陽が天空に存在する球体であることを人々は知っていた。それにもかかわらず、古代ギリシャにおいて、どうして太陽は黄金の四輪馬車に乗った英雄である、などと信じられたのだろう。
 神話の発生を理解するためのひとつの考えとして、分析心理学者のC・G・ユングは次のような話を彼の『自伝』中に語っている。彼は東アフリカのエルゴン山中の住民を訪ね、住民の老酋長が、太陽は神様であるかないかという問いに対して、太陽が昇るとき、それが神様だと説明したのに心を打たれる。ユングは、「私は、人間の魂には始源のときから光への憧憬があり、原初の暗闇から脱出しようという抑え難い衝動があったのだということを、理解した」と述べ、続いて、「朝の太陽の生誕は、圧倒的な意味深い体験として、黒人たちの心を打つ。光の来る瞬間が神である。その瞬間が救いを、解放をもたらす。それは瞬間の原体験であって、太陽は神だといってしまうと、その原体験は失われ、忘れられてしまう」と指摘している。
 太陽は神であるかないか、などと考えるのが現代人の特徴である。そうではなく、ユングが「光の来る瞬間が神である」と表現しているように、その瞬間の体験そのものを、「神」と呼ぶのである。あるいは、そのような原体験を他人に伝えるとき、それは「物語」によって、たとえば、黄金の馬車に乗った英雄の登場とし∵てしか伝えられないのであり、そのような物語が神話と呼ばれるのである。
 神話の意味について、哲学者の中村雄二郎は、「科学の知」に対する「神話の知」の必要性として的確に論じている。「科学の知」の有用性を現代人はよく知っている。それによって、便利で快適な生活を享受している。しかし、われわれは科学の知によって、この世のこと、自分のことすべてを理解できるわけではない。「いったい私とは何か。私はどこから来てどこへ行くのか」というような根源的な問いに対して科学は答えてくれるものではない。
 中村雄二郎は、「科学の知は、その方向を歩めば歩むほど対象もそれ自身も細分化していって、対象と私たちとを有機的に結びつけるイメージ的な全体性が対象から失われ、したがって、対象への働きかけもいきおい部分的なものにならざるをえない」と述べ、科学の知の特性を明らかにし、それに対して、「神話の知の基礎にあるのは、私たちをとりまく物事とそれから構成されている世界とを宇宙論的に濃密な意味をもったものとしてとらえたいという根源的な欲求」であると指摘している。科学の知のみに頼るとき、人間は周囲から切り離され、まったくの孤独に陥るのである。科学の「切り離す」力は実に強い。
 「物語」はいろいろな面で「つなぐ」はたらきをもっている。一本の木は科学的に見る限り、細かい事実は明らかになるとしても、あくまで一本の木である。人間はそれを「使用」したり「利用」したりはできるが、それと心がつながることはない。ところが、その木は「おじいさんが還暦の記念に植えた木ですよ」という「物語」によって、俄然そこに親しみが湧いてくる。あるいは、木を介して祖父の思い出が浮かんできて、祖父との心のつながりを感じるかもしれない。いずれにしろ、そこに情緒的な関係が生じるのである。

(河合隼雄著『神話と日本人の心』)

○■ / 池新