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課題集 ピラカンサ3 の山

○自由な題名 / 池新
○競争と協調 / 池新
○運命と意志、勉強の目的 / 池新
○このような集団に / 池新
 このような集団に強く組みこまれた個人にとって、世界とは集団そのものです。集団、または社会、または今此処の世の中、つまり此岸しがんということになるでしょう。死ぬと、日本人は、此岸しがんから彼岸へ移るのかどうか。必ずしもそうではなくて、彼岸さえも、実は此岸しがんの、具体的には所属集団の、延長と考えられている場合が多い。日本の文化が定義する世界観は、基本的には常に此岸しがん的=日常的現実的であったし、また今もそうである、といってよいと思います。小さな村の中に家族が住んでいて、その家族の中で、誰かが死ぬと、死者の魂はどこへ行くか。しばらくの間、どことも定めず、空中に漂っている、という説もあります。たとえば多くの儒者は、それに近いことを考えていたのでしょう。しかし柳田国男によれば、典型的には、村の近くの山の上に行き、そこから村を見まもっている。村はたいてい、水のある所ですから、山の裾、谷間など、下の方にあって、山の上からよくみえます。その山の上に魂が、永久に居るわけじゃないけれど、しばらく居る。そして特定の機会に村へ帰って来ます。いろんな風俗や習慣があるようですが、とにかく適当な機会に帰って来る。誰でもよく知っている機会は、夏のお盆です。帰って来るところは、隣村などということは絶対にない、必ず自分の村、しかも自分の家族のところです。つまり生きていた時の集団への所属性は、死んでも変わらない。日本人の集団所属性は死よりも強し。そういうことです。あるいは、死後の世界が集団の延長だといってもよい。窮極的には、此岸しがんから断絶し、独立した彼岸は、ない。本来の現実は、村そのものしかないわけです。家族、村、此岸しがん、それが唯一の窮極的な現実です。
 そういう世界観の此岸しがん性は、どういうことを意味するでしょうか。仏教が入って来たときには、その大衆への浸透を妨げる。それにもかかわらず、仏教が大衆のなかへ入ってゆけば、仏教そのものが、現世利益・此岸しがん的効用の方へ、変ってゆく。仏教からその彼岸∵性を奪う変化を「世俗化」とよぶとすれば、徳川時代に仏教の世俗化が徹底します。徳川幕府は仏教寺院を行政制度化して、誰も仏教徒でなければいけないということにした。仏教が政治権力と結び付いた時代は同時に、思想的には仏教の世俗化が徹底した時代だと思います。この時代の政治倫理的な価値体系、あるいは文学的・芸術的な表現は、早くも一七世紀から世俗的なものでした。儒教倫理は此岸しがん的です。文学作品や絵画に、仏教的・宗教的「モチィーフ」は、はなはだ少ない。その頃、アジアの大部分の地域の文化は――中国の場合にはちょっと難しい問題があるけれども――仏教的です。ヨーロッパでは、教会が魔女りをやっていました。日本ではそれが起こる程の排他的で、教条的な宗教体系は、もはや生きていなかった。文化自体が世俗化していた、ということになるでしょう。(中略)
 個人が集団へ高度に組みこまれている条件のもとでは、個人がその所属集団、具体的には家や村や藩や国家に超越的な権威または価値へ「コミット」することは、困難なはずです。あるいは逆に、そういう絶対的な価値がないから、個人が集団の利益に対して自己を主張することができない、つまり高度の組みこまれが維持される、ということもできるでしょう。これは鶏と卵の関係です。どちらが先であるかは別として、とにかく、日本文化の一つの特徴は、先に触れたように、集団に超越する価値が決して支配的にならないということです。明治以後の支配層は天皇を絶対化しようとしました。しかし天皇はまさに国民という集団の象徴であり、天皇の絶対化は、集団に超越する価値(たとえば儒教の「天」、キリスト教の「神」)の絶対化であるどころか、集団そのものの絶対化に他なりません。

(加藤周一「日本社会・文化の基本的特徴」より)

○■ / 池新