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課題集 ピラカンサ3 の山

○自由な題名 / 池新


○そもそもプラトンが / 池新
 そもそもプラトンが主著ともいうべき対話篇『国家』で展開した画家批判以来、伝統的美学は、原像の直接的再現という理念の重圧を、芸術に対してかけてきた。すなわちイデアに即して作られた寝椅子の模写にいそしむ画家を念頭に置いたプラトンは、絵画による模倣が、原像からの二重の離反・劣化(寝椅子の絵は、イデアの模倣物たる現実の寝椅子を、さらに模倣したことになる)を引き起こし、直接的な再現という課題達成を、一層不可能なものにしているのだとして、画家の業を寝椅子職人のそれよりも下位に位置づけたのだった。けっして再現されえないイデアを再現せねばならぬという重荷は、この後イデアが神の内へ、さらに人間精神の内へとその座を移しても、ずっとにない継がれていく。ところが、それに対して柳が示そうとしたのは、近づきえない原像への接近という不条理な促しではなく、むしろ「原像からの距離が別な美を生み出していく」という希望である。既に『工芸の道』の柳は、こういっていた――「かりに一人の作者が一つの壺を作り、其上に山水の画を描いたとする。そうしてそれを見本として民衆が何千何万と作り得たとする。既に見本を意識せずして作り得る迄に熟達したとする。其時それは美において、遥か見本よりも美しくなっているであろう」。
 原像から遠ざかれば遠ざかるほど、かえって「本質的なもの」へと近づいていくという反イデア論的な美は、たとえば柳が染色の領域で強い期待を寄せていた芹沢けいすけの仕事などに具体的に現われる。芹沢の型染は、肉筆の下絵に基づく形紙切り出しの段階で、モデルとなった事物の姿を既に二段階単純化させているのだが、さらに形紙による糊付け・色差しと進むにつれてデッサンから離れ、水洗いを経て最終的に布地に定着するに及べば、さまざまな貝殻や互いに寄り添って泳ぐ鯛などが、見事なかたちに結晶化して出現してくる。∵
 工程の重なりを経て原像から遠ざかっていくことは、柳によれば、主体の思惑を削り落としていく過程でもある。柳は紺絣を例にしてこういっている――そもそも絣を生み出すやっかいな工程は、どうあっても原画の模様に、ずれを生み出さずにはおかない。けれどもそのずれがむしろ絣を美しくするのであって、むりやり人為的に揃えてしまえば、絣独特の良さが消えてしまう。さらにそれが実際に使用されて洗いさらされることによって、出来上がり当初なお残っていた人間的臭みも、洗い流されていく。
 「個性が間接にされる」と柳がいう反復の根本傾向、すなわち作為の脱色を意味する「間接性」を、柳は版画や大津絵などにも見てとる。それら「工芸的絵画」は、あの「革命の画家」たちが描いた近代絵画のように、個性表現を目指した絵画ではないが、「個性を去る境地にこそ絵画の一天地」がある。たとえば浮世絵の場合、近代的な理解からすれば、絵師の筆による原画が、個性という原像にもっとも近いだろう。けれども「大概の場合段違いに版画になったものの方が美しい。原画の殆ど凡ては版画以上に美しくあることはむずかしい」。
 柳は反復におけるかたちの生成を、このように工芸に主軸を置いて考えていた。この態度は、なるほど、それはそれで、ギリシア以来の手仕事への蔑視を基底に潜めた西洋的伝統に対するアンチテーゼではあっただろう。けれども魯山人の視線を通して「手としての人間」をピカソと結びつけてみたように、私は、柳のこうした限定を乗り越えて考えたいと思う。すなわち柳の思想的可能性を単なるアンチテーゼに留めず、積極的に徹底化する方向で、彼が見たかたちの生成を、造形のより広い領野に見出しうるものと考えたいのである。

(伊藤徹『柳宗悦――手としての人間』)

○■ / 池新