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課題集 ピラカンサ3 の山

○自由な題名 / 池新
○ゼネラリストとスペシャリスト / 池新

○私たちは日本という風土のなかで / 池新
 私たちは日本という風土のなかで暮らしている。そして、日本の風土のなかで暮らしてきた人々の過去の経験を受け継いでいる。日本的な農業や林業、漁業の仕方、日本的な建築、日本的な宗教観、祭りなどの行事やさまざまな習慣。私たちの発想や考え方も、この風土から完全に離れてはつくられていない。いわば私たちは、日本の風土を基層文化としてもちながら存在しているのである。
 ところが、そんなことは十分に認めているはずの私も、日本という国家に対しては、少し冷静な態度をとりたくなる。というのは、次のような気持ちが私にはあるからである。
 私が上野村に滞在するようになった頃、村人が使う「公共」という言葉に関心をもったことがあった。「それは公共の仕事だから」とか、「それは公共のことだから」というようなかたちで、村人は何度となく「公共」という言葉を使う。ところが村人が使うこの言葉の響きは、それまで私が東京で感じていたものとは少し違っていた。
 東京で「公共」といえば、国や自治体が担うもの、つまり行政が担当すべきものを指していた。それに対して私たちは「私」であり、「私人」であった。だが村人が使う「公共」は、それとは違う。「公共」とは、村では、みんなの世界のことであり、「公共の仕事」とは、「みんなでする仕事」のことであった。だから、春になって、冬の間に荒れた道をみんなでなおすことは「公共の仕事」であり、山火事の報を受けて家から消火にとび出すことも、祭りの準備をすることも、「公共の仕事」であった。
 「公共」と行政とは、村では必ずしも一致していないのである。村人の感覚では、行政の前に「公共」があり、行政は「公共」のある部分を代行することはあっても、それはあくまで代行であって、行政イコール「公共」ではなかった。
 そして村人が感じている「公共」の世界とは、それほど広いものではなかった。それは自分たちが直接かかわることのできる世界であり、自分たちが行動することによって責任を負える世界のことであった。つまり、自分との関係がわかる広さといってもよいし、それは、おおよそ、「村」という広さであるといってもよい。
 つまり、村人にとっては、社会は、それぞれの地域で展開している「公共」の世界の連合体のようなものとして、とらえられてい∵た。そして私には、その方が、社会の自然なとらえ方のように思われた。「公共」とは自分たちが共同でつくりだしている世界だととらえる考え方も、行政は公共のある部分を代行しているにせよ、けっして行政イコール公共ではないという見方も、社会とはそれぞれの地域の人々が責任を負っている場所の連合体だというとらえ方もである。
 私には、近代国家はこのような社会観をつき崩してきたように思われる。近代国家は、すべての人々を国民として共通化、平準化しようとしてきた。国民としての画一化をはかったといってもよい。おそらくその理由は、近代国家というものが、ヨーロッパの絶対王制の時代状況下で生まれたからであろう。すなわち度重なる戦争をくり返していたヨーロッパ絶対王制の国家は、戦争に勝利するためには、臣民の国民としての統一と、国家統一のための国民的アイデンティティーの確立、共通意識をもった国民としての画一化が、どうしても必要であった。そしてこの国民としての共通化が、後に市場経済形成にも役立っていった。
 この国民国家が、近代化の過程で日本にも移入されてきたのだとするなら、村人の感じている「公共」の世界と国家との間には、ずいぶん大きな隔たりがあることになる。そのどちらに重心を置くことが、自然と人間の未来にとってよいのか。それは私たちが考えてもよい課題である。

 注 上野村――群馬県多野郡にある山村。

(内山節『「里」という思想』)

○■ / 池新