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課題集 ピラカンサ3 の山

○自由な題名 / 池新
○コンピュータと人間の心 / 池新
★得意分野と苦手分野、ウサギとカメ / 池新
○日の丸君が代、経験と知識、規則と自由 / 池新
○「家」は家族の全体性を / 池新
 「家」は家族の全体性を意味する。それは家長において代表せられるが、しかし家長をも家長たらしめる全体性であって、逆に家長の恣意により存在せしめられるのではない。特に「家」の本質的特徴をなすものは、この全体性が歴史的に把捉せられているという点である。現在の家族はこの歴史的な「家」を担っているのであり、従って過去未来にわたる「家」の全体性に対し責任を負わねばならぬ。「家名」は家長をも犠牲にし得る。だから家に属する人は親子夫婦であるのみならずさらに祖先に対する後裔であり後裔に対する祖先である。家族の全体性が個々の成員よりも先であることは、この「家」において最も明白に示されている。(中略)
 我々が日本的なる恋愛の特殊性について語ったことは、そのまま家族としての存在の仕方にも通用する。ここでは男女の間ではなくして夫婦の間・親子の間・兄弟の間が問題であるが、この「間」がまず第一に全然へだてなき結合を目ざすところのしめやかな情愛である。素朴な古代人は夫婦喧嘩げんかや嫉妬を物語るに際してすでにこのようなへだてなき家族の情愛を示している。さらに万葉の歌人憶良の「しろがねも黄金も玉もなにせむにまされる宝子にしかめやも」の絶唱は、日本人の心を言い当てたものとして、永く人口に膾炙している。憶良の家族的情愛はかの罷宴ひえんの歌においてさらに一層直観的に現われる。「憶良らは今は罷らむ子哭くらむその子の母もを待つらむぞ。」このようなしめやかな情愛は大きい社会的変革を引き起こした鎌倉時代の武士にも見ることができる。熊谷蓮生れんせい坊の転心は子に対する愛情にもとづくのである。さらに足利時代の謡曲においては、親子の情は最も根源的な深い力として描かれている。徳川時代の文芸が人の涙を絞ろうとする時にこの親子の情を使ったことは言うまでもない。あらゆる時代を通じて日本人は家族的な「間」において利己心を犠牲にすることを目ざしていた。自他不二の理念はこの場面において比類なく実現せられているのである。従って第二にそれはしめやかであると同時に激情的になる。情愛のしめやかさは単に陰鬱に沈んだ感情の融合ではなくして、横溢する感情を変化においてひそかに持久させたものである。強い感情が燻し∵をかけられて静かな形に現われたものである。だからへだてなき結合を目ざす力は表面の静かさにもかかわらずその底力においてきわめて烈しい。利己心の犠牲も、単に便宜上必要な程度に留まるのではなくして、あくまでも徹底的に遂行せられようとする。そこで障礙に逢うごとにしめやかな情愛は激して熱情的になる。それは家の全体性のゆえに個人を圧服し切るほどの強い力を持っている。だから第三に家族的な「間」は生命を惜しまない勇敢な・戦闘的な態度となって現われてくるのである。曾我物語に現われているような親の仇討ちの思想がいかに強く日本の民衆の血を湧かせたかがそれを示している。親のために、また家名のために、人はその一生を犠牲にする。しかもその犠牲は当人にとって人生の最も高い意義として感ぜられていたのである。「家名」のために勇敢であった武士たちは皆そうであった。家の全体性は常に個人より重いのである。従って第四に人はきわめて恬淡に己れの命をも捨てた。親のためあるいは子のために身命を賭すること、あるいは「家」のために生命を捨てること、それは我々の歴史において最も著しい現象である。家族のために勇敢であることが必ずしも利己心にもとづかず、従って執拗に生を欲するのでないということは、しめやかな情愛がすでに利己心の犠牲をふくむということによっても理解し得られるであろう。
 かくして「家」としての日本の人間の存在の仕方は、しめやかな激情・戦闘的な恬淡というごとき日本的な「間柄」を家族的に実現しているにほかならぬ。そうしてまたこの間柄の特殊性がまさに「家」なるものを顕著に発達せしめる根拠ともなっているのである。なぜなら、しめやかな情愛というごときものは、人工的・抽象的な視点の下に人間を見ることを許さず、従って個人の自覚にもとづくところの、より大きい人間の共同態の形成には不適当だからである。そこで「家」なるものは日本においては共同態のなかの共同態として特に重大な意義を帯びてくる。
(和辻哲郎『風土』)