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課題集 ピラカンサ2 の山

★自己の存在(感)/ 池新
 【1】自己の存在、この私が存在しているということは、あらゆる存在の可能性とまったく等価な事態である。それゆえまた、この私が存在していなければ、あらゆる事物のあらゆる存在者の存在ということがありえないだろう。【2】いま、可能的・現実的な存在の全体を「宇宙」と呼ぶことにしよう。自己の存在は宇宙の存在と同値なのだ。このことは、過激な独我論を導くことになる。自己というものが有するある種の優越性、自己の自己牲ということの究極の根拠も、この独我論と同じところに由来する。
 【3】あらゆる事態(事物の特定の結びつき)は、知覚されたり、感覚されたり、予期されたり、想起されたり、判断されたり等々において存在している。知覚、感覚、予期、想起、判断等々のあらゆる心の働きを、ここでは志向作用と呼ぶ。【4】任意の志向作用は、何ものかに帰属するものとして、何ものかに担われたものとして発現する。志向作用が帰属する存在者が、身体である。したがって、可能的・現実的なあらゆる事態と事物が、身体に対して存在していることになる。ある事物や事態は、この私(と指示された身体)に直接に現前しているだろう。【5】しかし、ある事物、ある事態は、他者(他の身体)の志向作用の内に捉えられているに違いない。ところで、こういった他者を知覚したり、想像したりするのも再びこの私である。【6】つまり、他者は、この私に帰属する志向作用の内部にあるのだ。そうであるとすれば、あらゆる事物、あらゆる事態は、究極的には、この私に対するものとして、この私に帰属するものとして存在するほかない。【7】私の存在と宇宙の存在が等価であるのは、このような連関を認めることができるからである。自己とは、可能的・現実的な事態を捉える志向作用の究極の帰属によって定義される身体のことである。【8】だから、自己の絶対的な特権性は避けがたい結論である。
 自己と宇宙とが等価的な存在であるということは、「原理的にはどのような志向作用によっても自己(この私)は積極的に主題化されることがない」ということを意味している。【9】たとえばヴィトゲンシュタインは、「私は歯が痛い(私は歯痛をもっている)Ich habe Zahnschmerzen」とか「私は考えている I think」と言うべきではなく、非人称の主語を使って「歯痛がある Es gibtZahnschmerzen」とか「考えが生じている(それが考えている)It thinks」と言うべきだ、と主張している。【0】歯痛や思考が生起しているとき、直接には、歯痛や思考を所有する私自身という観念はど∵こにも現れてはいない。われわれは生において事態を捉える心的印象(歯痛や思考)の継起を体験するが、そのどこにもそれらの印象を所有する「私自身」は立ち現れることはない。事態を捉える任意の志向作用が究極的には自己に帰属しているとするならば、痛みや思考が「私」(自己)に所有されている、と主張することは、過剰な(不必要な)規定なのである。「痛み」は、「自己に帰属している」ということ、「この私に持たれている」ということをはじめから含んでおり、まさにそれゆえに「私が痛みを所有している」と言うべきではないのである。そのような言明は、私が所有しないことも可能な「痛み」の存在を含意してしまうからだ。
 ここから、「心を所有する、この私ではない身体」の存在、すなわち他者の存在は、否定されるように思われる。他者が存在するということは、たとえば、他者が、私と同様に「痛み」を所有するということである。「他者の痛み」とは、通常、「私のとほぼ同じだが、私ではなく他者に所有されている痛み」であると考えられている。つまり、「他者の痛み」は、「私が所有する痛み」をモデルにした類推によって得られるとされているのだ。しかし、ヴィトゲンシュタインによれば、このような類推は不可能である。私に所有されない(私に帰属しない)痛みはもはや「痛み」ではありえないからだ。こうして、われわれは一種の独我論に到達せざるをえない。
 しかし、このような独我論は、自らをまさに独我論として主張することを原理的に封じられている。すでに述べたように、志向作用が帰属する「この私」(自己)の存在を、積極的に主題化することはできないからだ。さらに言えば、そもそも、この独我論に立脚するならば、ちょうど私が他者の痛みを類推することが不可能であるように、原理的に、他者は私の志向内容を理解することができないのだ。それは沈黙におして示されるしかないような独我論である。

(大澤真幸「他者・関係・コミュニケーション」)