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課題集 ペンペングサ3 の山

○自由な題名 / 池新
○春を見つけた、種まき / 池新

★このような独特の神秘を宿した量子力学の登場は / 池新
 このような独特の神秘を宿した量子力学の登場は、孤立した文化現象ではない。それは、同時代の他の文化現象・社会現象と緊密に連動している。たとえば、それは、二〇世紀初頭の芸術の革新運動と、同じ「精神」を共有している。
 量子力学では、「可能性」が、主観的な内面の現象ではなく、客観的な現実性をもつ。例えば、今、「光子が右の孔を通過する確率が五〇%、左の孔を通過する確率が五〇%だ」という言明がなされているとしよう。「可能性」ということについての伝統的な理解に従えば、この言明は、次のように解釈される。すなわち、「光子は客観的には右か左かのいずれかの孔を通過するのだが、われわれの知りえた情報が不十分であったがために、光子の未来の経路について十分な確信をもって予知できない」と。だが、量子力学が含意しているのは、こういうことではない。「五〇%右、五〇%左」という状態に、ある種の「客観的な実在性」があると考えねばならないのだ。先に、「単一の光子が自己分裂して二つの孔を同時に通過している」と述べたときに意味しているのは、このことである。
 量子力学のこうした特徴を考慮したとき、われわれは、量子力学と(音楽における)「十二音技法」との類似性を看取することができる。シェーンベルクの十二音技法とは、一定の規則に従うことで、一オクターヴに含まれる十二音を完全に平等に使おうとする技法である。この技法に基づく作品は、――優遇される特定の中心音をもたないために――完全に無調になる。逆に言えば、それは、可能なすべての調性が、そこから派生する母胎である。つまり、十二音技法は、(調性の)可能性そのものを現実性として提起し、作品化しようとする試みなのである。それが、成功したかどうかの判断は、難しいが。
 二〇世紀初頭の芸術様式と量子力学との対応ということに関して、より興味深いのは、美術の領域である。ピカソ等によって用いられたキュビスムこそ、美術の世界における、量子力学の相関物である。キュビスムとは、対象を、幾何学的な切子面に分解し、それを再構成するようにして描く技法だ。キュビスムの核心的な特徴は、対象が、多面から同時に把握されていることである。だから、キュビスムの作品は、様々な方向を向いた多数の平面の組み合わせ∵のように描かれるのである。複数の平面は、複数の視点に対応している。それぞれの(仮想的な)平面に正対する位置に、一つずつ視点が配されていることになる。キュビスムが完成するのは、一九一〇年代のピカソの作品においてであろう。これは、量子力学が芽吹いてくる時期に対応している。さらに、キュビスムをキュビスムたらしめている特徴が多視点性にあるとすれば、「最初の二〇世紀絵画」と評される「アヴィニョンの娘たち」において、すでにキュビスムはスタートを切っていると言ってもよい。この作品が描かれたのは、特殊相対性理論が発表されてから二年の後であった。
 多視点的なキュビスムの登場によって、長きにわたって西洋絵画を支配してきた規範――線遠近法――が、息の根を止められる。線遠近法は、空間を均質的なものとして捉える超越的な視点を前提にしていた。ニュートン物理学もまた、これとまったく同じ視点を前提にしている。それでは、キュビスムが量子力学に対応している、というのはどういう意味であろうか? キュビスムは、対象を同時に把握する、複数の異なる視点を前提にしている。すなわち、それは、多数の認知する視点、多数の知る視点を共存させているのである。ところで、量子力学においても、「(対象における)知」は、常に、複数の(二つの)場所に分裂し、同時に帰属する形で与えられる。単一の超越的な視点を崩壊させる、こうした視点の多数性に関して、量子力学とキュビスムは共通しているのである。

(大澤真幸「「とき」の思考」に基づく)

○■ / 池新