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課題集 ペンペングサ3 の山

○自由な題名 / 池新
○バレンタインデー、もうすぐ春が / 池新

★現代は退屈が極端に / 池新
 現代は退屈が極端に嫌がられている時代だ。若者たちは、スケジュール帳が空白にならないように、さして重要でもない用事をたくさん入れているし、そうでなければ「何か面白いことないの」と呟いている。世の親も子どもに退屈させるのは悪いことだと考えているのか、子どもをほとんど毎日、塾やお稽古ごとに行かせている人もいるという。
 退屈を嫌悪するそうした欲求に応えようと、退屈を紛らわせるための刺激が世の中に満ちている。
 (中略)
 こうしたネットやゲームのように、絶え間なく、それも簡単に刺激を与えてくれるものが、いままでの日常生活の中にあっただろうか。現実の子どもたちは、歴史上かつてなかったほど、強烈な刺激に囲まれた状態で生きているのだ。
 私は、外からの強烈な刺激で脳を興奮させるのではなく、刺激の少ない状況でも自分の脳を満足させる能力をつけるべきだと思う。すなわち退屈の中から、何か満足感を自分で生み出す力、「退屈力」をつけようということだ。
 私は若い頃から、英国の哲学者バートランド・ラッセルに私淑してきた。ラッセルは一九三〇年に書いた著書『幸福論』の中で、「退屈と興奮」という章をもうけ、「退屈は、有史時代を通じて大きな原動力の一つであったし、とりわけ現代においてそうである」と説いた。
 そして、次のようにも書いている。
 「多少とも単調な生活に耐える能力は、幼年時代に獲得すべきである。この点で、現代の親たちは大いに責任がある。彼らは子どもたちに、ショーだの、おいしい食物だのといった消極的な娯楽をたくさん与えすぎている」
 ラッセルは現代の子どもたちが置かれている環境をみたら驚くにちがいない。ゲームやネットなど、外からの強烈な刺激が子どもの周囲に氾濫しているのだ。このように退屈することを許さない∵環境は、子どもにどのような影響を与えてしまうのだろうか。
 退屈が生み出したものを考えるとき、とても参考になるエピソードがある。「ドラえもん」の藤子不二雄Aが自伝的作品『まんが道』で描いた、二人が少年の頃の話だ。
 昭和二十年代の前半、富山県の高岡に住んでいた二人は、いつも大好きなマンガについて語りあっていた。しかし終戦直後にマンガ雑誌など簡単に入手できるわけではない。そこで二人は、古本屋で入手したものを参考に、自分たちで雑誌をつくることにした。これが現代のように、いくつも雑誌があって、毎日、マンガを読んでいたとしたら、自分たちで描こうとは思わなかっただろう。退屈を創造の原動力にした格好の例である。
 「幼年時代の喜びは、主として、子どもが多少の努力と創意工夫によって、自分の環境から引き出すようなものでなければならない」
 ラッセルもこのように書いている。
 この例を日本文化の視点から見てみると、藤子不二雄には想像力をかきたてるための時間、つまり精神の「ため」を作る時間がたっぷりあったといえる。この「ため」という言葉は、もともと「腰のため」のように身体に関する表現で、それが転じて「力をためる」「思いをためる」など、前向きの精神状態をあらわしていた。ところが今や、「疲れをためる」「ストレスをためる」など、心身が悪い状態をあらわすようになっている。精神的な「ため」を積極的につくるという技術が、日本人から次第に失われていくうちに、言葉の意味合いまで変わってしまったのだ。

(齋藤孝「子どもに『退屈力』をつけよ」)

○■ / 池新