昨日322 今日323 合計147681
課題集 ペンペングサ3 の山

○自由な題名 / 池新
○雪や氷、なわとび / 池新

★デジカメ→パソコンという世界には / 池新
 デジカメ→パソコンという世界には、選択肢が網の目のように広がっている。オンとオフの選択からはじまったのがコンピューター世界だから、どこまで行っても選択である。毎日毎日選択しないと前へ進めない。それが辛い。選択なんだから自由にできていいじゃないか、というが、いつの間にか選択させられているわけである。
 自由な表現、というのも最近は嫌な言葉だ。もちろん理念の上で間違ってはいない。でもいまは自由な表現といったとたんに嫌で、これは何故だろうか。やはり言葉のもつ体臭のせいだろうか。体臭はあるくせに、言葉に真実味がない。公的な、横滑りの感触だけがある。
 選択肢、という言葉は多様性のシンボルみたいに使われていて、その勘違いが嫌なのである。
 選択するというそのことは、とりあえずは自由なおこないである。自由であるのは、自分にとっては心地よいことのはずである。でも選択を迫られるのは、辛いことだ。常時選択しないと進めない世の中は、自由どころか地獄である。ぼくは社長になりたくない。県知事も王様も回避したい。
 選択肢とか自由な表現が辛いのは、自分という位置の束縛が出てくるからである。自由による束縛といってもいい。いまの子供たちは、自由な表現というものを強要されて、ずいぶん辛い思いをしているのではないか。表現したいことなんて何もなくても、とにかく自由にして見せないといけない。それよりもむしろ固苦しい習いごとを押しつけられて、そのことに抵抗を感じている方がよほどネイティブの自由がふくらんでくるのに。
 デジカメ世界では、すべてに選択肢が林立していて、選択することで空の色を変えたり、邪魔な電柱を取り除いたり、女性の鼻を高くしたり、何でもできる。自分の思い通りにできる。でもそういう思い通りは快適なのだろうか。
 逆にいうと自分の思い通りにしかできないことは、自分の思いだ∵けに閉じ込められるということになる。自分の思い通りが突っ走った結果は、自分が自分の壁の中に閉じ込められて、外気は遮断されて、そのままでは一酸化炭素中毒となってしまう。
 デジカメと従来のフィルムカメラを比べるとよくわかる。フィルムカメラだって、最近のは自動露出のオートフォーカスで、じつに便利で有能である。選択ボタンだって、たくさんついてしまっている。でも電柱は消せないし、女性の鼻も高くできない。道具としての機能の基盤は、あくまで対象物をそのまま受け入れる機構に止まっている。
 つまり思い通りという自分の壁があるにしても、その壁が低いのだ。だから思い通りにいかないところから、その低い壁を超えて運命が流入してくる。
 ぼくなど、それこそが写真を撮る楽しみなのだ。思いも寄らぬ運命は、常にフィールドにある。自分の外の世界の、つまり複雑系の中にあるといってもいいのかもしれない。カメラは道具だから便利であるに越したことはないのだけど、その外気の中に漂う運命がすくえないものではしょうがない。
 デジカメ→パソコンという世界は、そういう運命への防御装置で成り立っている。だから仕事の道具としては有能である。でも人間の思い通りにできる装置は、思いがけないものの到来が封じられていることでもある。自分にとっていちばん面白いのは、思いもしないものに出合うことだ。自分の思いを超えたものにめぐり合うことである。何故それが面白いかといえば、そのことで自分が広がっていく快感があるからである。

赤瀬川原平「選択肢という言葉が嫌な理由」による)

○■ / 池新