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課題集 ペンペングサ3 の山

○自由な題名 / 池新
○節分、マラソン / 池新
○お金、家族の対話 / 池新
★人間社会は「同じ」を繰り返すことで / 池新
 人間社会は「同じ」を繰り返すことで「進歩」してきた。「同じ」というはたらきの典型が言葉である。日本のなかに違う言葉を話す人たちがいると、やがて「同化」される。それが方言やアイヌ語に起こったことである。すでにおびただしい数の言語が滅びた。いまは英語が国際語だといわれている。インターネットの普及によって英語はさらに広がり、中国語はやがて北京語に統一されていくのではないかという予測もある。中国語の場合、ケータイへの入力はアルファベットつまり発音に依存し、それなら発音が「正しく」ないと、目的の漢字が出てこないからである。そのうち日本語はかつてのアイヌ語になるかもしれない。それが「進歩」なのである。そこでは皆が「同じ」言葉を話す。その反動で、個性、個性とわめきだすのであろう。挙句の果てに、心に個性があるなどと思ってしまう。
 個性をいうなら、多様性というべきである。個々の独自性がいちばん大切なのではない。個々の独自性は、それ自体が滅びたら、それまでである。なにしろ諸行は無常なんだから。多様性とは、さまざまな「違ったもの」が調和的に存在する、存在できる、という状態である。それを私はシステムと呼ぶ。生態系=エコシステムは生物多様性を維持する。なぜ世界的にその「違ったもの」が危険に陥っているか、すでにおわかりだと思う。「同じ」「同じ」をひたすら繰り返すだけでなく、それを「当然として強制する」世界では、多様性は失われていく。
 「違い」は感覚世界に由来する。それなら感覚世界をたえず「脳裏に存在させなければならない」。それぞれ違ったものこそが、真の意味での「現実」である。現実は人によって違う。一言で表わすことができない。一言でいうためには「同じ」にしてしまうしかない。だからたとえば「なにごともアッラーの思し召し」ということになる。「同じ」を繰り返す意識が、その意味での多彩な現実を嫌うことは、むしろ当然であろう。現実=感覚世界を、意識はできるだけ「同じ」に変えていく。
 「そのほうが便利だから、そのほうが楽だから」と人々はいう。∵
 環境省がいくら頑張っても、多様性の説明がむずかしいわけである。説明するほうだって、現代人であり、官僚である。そもそも言葉にすれば、五百万種は超えるという昆虫が「虫」の一言となり、十億を超える人たちがただの「中国人」になる。官僚なら言葉つまり情報を扱うしかなく、言葉や情報はひたすら同一性の上に成立する。だからこそ私は、
 「言葉は感覚世界と概念世界をつなぐだろうが」
とわざわざいわなければならないのである。言葉こそが「同じ」と「違う」の間で、微妙な釣り合いを保つ。そこを「怠けたら」、世界はひたすら同一化する。
 たとえばお役所なら、「数字なら扱うが、実体は扱わない」。数字にすれば、十人の人は要するに十である。個別の実体としてみれば、十人の人だけでも、やたらに面倒なものだというしかない。だから、
 「そんなややこしいものなんか扱ったら、仕事にならない」
 「規則は規則だろ」
 「そんなことはできません」
 お役所はたえずそう繰り返す。ついには、
 「本日の交通事故、死者一名」
となる。感覚世界で、それこそ唯一無二の存在である、ある人が失われても、意識の世界はそれを「一名」で済ませる。それで「人命を尊重せよ」と、お題目をいう。人命一般というものが、この世にあるのか。
 とはいえ、人はその二つの世界に住むしかない。現に住んでいるからである。感覚を消すことも、意識を消すこともできない。それなら「同じ」を繰り返して階層をつくる一神教的世界に対して、「違う」感覚世界と「同じ」概念世界を往復するだけで、「同じ」という世界を「上に上ろうとしない」日本人は、珍しい存在ではないのか。そうだからこそ、逆に多様性の維持に関して、利点を持ち、持って来たはずである。
(養老孟司『無思想の発見』による)

○■ / 池新